本日のローズンゲンの御言葉です。
「主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。」イザヤ8:17
「わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」2コリント5:6-7
本日の御言葉には、次のように記されています。
「わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」
この御言葉を読みながら、「わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」という言葉が心に残りました。私たちは、信仰をもって歩んでいます。そんな中、主が私たちと共に歩んでいてくださることを知っており、そのような意味で「いつも心強い」のだと思います。
しかし、一方で、肉の身体で身にまとい、生活をしている限り、様々な現実の課題や問題に向き合わされたり、翻弄されたりしてしまっています。そんな中、ふと、目の前の現実のことで一杯一杯になったり、主が共にいてくださっていることが分からなくなったりしてしまうことがあるのだと思います。そのような意味で、主と共にいてくださることを知っていて、強められつつも、主と離れてしまっている自分がいることをも実感せざるをえない…。
そういう私たちがいるのではないでしょうか。
そんな中、その時々の状況に心が揺れ動いてしまう私たちがいたりすることがあったりするのではないかと思います。そして、そんなふうに心揺れ動く自分を思う時、自分が情けなく思ったり、信仰がないように思えたり…。そういうこともあるんじゃないかと思います。
私自身、そういうことがあるなと思いながら、本日の御言葉に励まされる思いがしました。
主が共にいてくださることを感じ、心強められたり、主が共にいてくださっていることが分かっていつつ、心揺れ動くことがあります。しかし、本日の御言葉を読む時、「それでも大丈夫」と呼びかけられているのでないかと思うのです。それでも大丈夫…。むしろ、それこそが「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」ということなんだよ…。そんなふうに呼びかけられているんじゃないかと思いました。
私たちは目に見える現実に向き合って歩んでいる限り、その現実に心揺さぶられることがあります。しかし、その中で、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいくことをやめないでいたいと思います。その信仰に、日々心強められていきたいと思うのです。 (鈴木牧人)