「成長の種② 石があったら根は伸びません」

ルカ8:4-8、8:13

本日の箇所は、先週に引き続き、「種を蒔く人のたとえ」です。イエス様は「石地」に落ちた種について、次のようにおっしゃいました。「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」(8:6) 。ここで言われている「石」とは何でしょうか。色々なことが言えるかも知れません。ただ、本日の箇所を読みながら思うのは、私たちの中にある「御言葉を受け入れようとしないもの」が「石」ではないかということです。たとえば、私たちの「こだわり」がそうだったりするかも知れません。同様に私たちの「頑なさ」、あるいは、私たちの中にある「心の傷」や、「痛み」がいつの間にか、私たちの「石」となって心に残っていることがあるかも知れません。そのような私たちの心にある色々な思いが、「石」のように塞がり、御言葉を遮り、受け入れなくさせているのです。

私自身の中にもそのような「石」があるんじゃないかと思います。そして、自分自身のこととして思うのは、そのように根が伸びてきて、私の中の「石」に遮られるということは、私にとって「私」と「御言葉」がぶつかるような経験ではないかと思います。御言葉が私にぶつかるのか、私が御言葉にぶつかるのか、それはともかくとして、そういう思いをさせられることがあります。その時に私たちはどうするでしょう。あくまで頑なであるでしょうか。私自身のこれまでの経験として教えられてきたことがあります。それは御言葉が私の中の「石」にぶつかるという経験は、私たち自身、問われる経験なのですが、きっと、それは私たちが豊かにされる経験でもあるんじゃないかということです。私たちは御言葉にぶつかりながら、色々な思いを通らされていきますが、その中で私たちの「石」が砕かれ、神の取り扱いに生かされていくとするなら、私たちはきっとそのことを通して、自分自身が開かれていくと言いますか、豊かにされていくということがあるのです。

そして、さらに思います。私たちがそのように、御言葉に砕かれていく時、きっと私たちはそのことを通して、自分と神様との関係が逆転していくのではないでしょうか。それまでどこか自分が中心だった部分が逆転し、神様が中心になっていくのです。

イエス様は「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(8:13)とも言われました。この言葉にドキッとさせられます。この言葉にあるように、私たちというのは、目の前に試練等、様々なしんどいことがあったりすると、すぐに自分の身を引いてしまいそうになることがあります。私自身、そういうことがあるように思います。しかし、このことについても思わされることがあります。それは、私たちにとって、御言葉が必要なのは、むしろ、そういう時なんじゃないかということです。私たちが試練に遭う時、試みに遭う時、しんどい時、身を引いてしまうようなことがあるかも知れませんが、むしろ、そういう時こそ、本当のところ、御言葉は私たちにとって必要ですし、実際、御言葉は、そのような時こそ、私たちにとって、支えとなるし、励ましとなるのだと思うのです。

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