「成長する種③ 覆いふさぐことがあるけれど」

ルカ8:4-8、8:14

イエス様は「茨」に落ちた種について次のようにおっしゃいました。「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」(8:7)。8:14には「茨」についての具体的な様子として、御言葉を聞くには聞くのですが、聞いた後、人生の思い煩いだったり、富への誘惑や、様々な快楽に心が引きずられて、その思いにどんどん心が覆いふさがれてしまうんだということが書かれています。

 先日、九州バプテスト神学校の講義の中で、こんな言葉を分かちあいました。

「赦罪に対して、然りをいうことによって、起こってくることは、悪霊のわれわれに対する支配が打ち破られるということである」。(『牧会学Ⅰ 慰めの対話』P.425、E・トゥルナイゼン著、加藤常昭訳、日本キリスト教団出版局)

 ここに書かれていることをかみ砕いて言うなら、私たちが悪魔とか、サタンとか、悪霊、そのようなものの支配から解放され、克服されるとするなら、それは、私たち一人一人に、神様の赦しがきちんと伝わることによってなんだということなのだと思います。先日の講義では「このことって、大事だよね」ということが話し合われました。この言葉を言い換えるなら、私たちがもしサタンを克服できないとすれば、そこには私たちが神様の赦しをきちっと伝わっていないということなのではないかと思います。そして、実際、そういうことがあるんじゃないかと思います。サタンのもともとの語源とは、「敵対する者」とか「告発する者」という意味のヘブライ語から来ています。そのことを考える時に、私たちはこのサタンが語る言葉に本当に弱いんじゃないかなと思うのです。私たちというのは、とかく誰かから批判されたり、訴えられることに弱いということがあるのではないでしょうか。そんな中、私たちを訴えようと言葉を投げかけてくるサタンの言葉に対しても、すぐにやられてしまうことがあるのではないかと思います。そんな私たちというのは、神様の赦しのメッセージをきちっと受け取れているだろうかと思います。受け取っているようで、どこかちゃんと受け取れていないということがないだろうかと思うのです。神様の赦しは知識として知っていても、私たちの中でどこか気休め程度の事柄になってしまっているということはないでしょうか。そんな私たちが結果として、色々な思いでがんじがらめになってしまっていることはないだろうかと思うのです。

 本日の箇所には、せっかく御言葉の種が蒔かれたのに、大地に茨が覆いふさいでしまっている様子が語られています。この状況は「大地に光が届かなくなっている状況」でもあるのだと思います。色々なことに心が覆われて、私たちの心の大地に光が届かなくなってしまっているのです。この時、私たちの心に届かなくなっている光とは何でしょう。それは何より、神様の愛の光、恵みの光、憐れみの光、そして、赦しの光ではないでしょうか。私たちに今も注がれているはずの神様の愛の光、恵みの光、赦しの光が私たちの心に届かず、私たちの心は他の様々なことに心が覆いふさがれてしまっているのです。

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