「キリストのために苦しむことも、恵みとして」
フィリピ1:27-30
「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(1:29)
ここでパウロは様々な現実の課題の中、それでもイエス様を見上げて歩んでいたフィリピ教会の人たちに「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と語りました。一見、厳しい言葉に聞こえるかも知れません。でも、パウロとフィリピ教会の人たちとの関係を思う時、この言葉がフィリピ教会の人たちを深く思いやっての言葉なのだと思います。フィリピ教会の人たちの大変な状況もよく分かっている…。その上で、だからこそ、語られている言葉なのだと思うのです。
私にとって1:29の御言葉は思い出深い言葉です。というのは、私が郡山の教会の牧師だった頃、一人の教会員がこの御言葉をよく取りあげていました。もう一つ、1:29の御言葉を読む時、思い出すことがあります。ヨハネ2:1-11に記されている「カナの婚礼」の記述です。ここには水がぶどう酒に変わったという奇蹟を知ったのは召し使いたちだけだったことが記されています(2:9)。この召し使いはおそらく、この結婚式の中では背後で奉仕ばかりしてきた人たちでした。汗水たらして、苦労し、しかも、その苦労を誰にも見てもらえなかったのだと思います。「自分たちは一体、何でこんなことをしているんだろう」と思ってしまうようなこともあったかも知れません。華やかな結婚式の式場では、彼らの苦労をよそに、楽しげに話したり、美味しい食事を食べたりしていました。それを見て羨ましかったりしたことはなかったでしょうか。そんなふうに考える時、祝福に味わっているのは、召し使い以外の人たちで、召し使いたちは祝福からあぶれた人たちに思えたりするのです。しかし、聖書は語るのです。結婚式で表舞台に立つこともなく、一生懸命してきた奉仕も顧みられることもなく、おそらくそこで出てくる料理も、ぶどう酒も実際には味わうことがなかった召し使いは、彼らだけが味わった特別な祝福があった…。彼らだけが知ることができた神様の御業があったんだと語るのです。
カナの婚礼の召使いたちのことを思う時、私たちの信仰の歩みって、こういうことがあるんじゃないかと思います。私たちの信仰の歩みは、根底に喜びがあります。しかし、実際の歩みには、色々なことがあって、悩んだり、迷ったり、苦労させられたりすることがあるのではないでしょうか。でも、そのような苦労を通らされる中で、私たちの喜びがさらに深められ、喜びの質が変えられていくということがあるんじゃないかと思うのです。パウロはフィリピ1:25で「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように」と語っていますが、そのように様々な経験を経て、深められる信仰の思い、喜びというものがあるのです。そんな中、改めて、パウロが語った「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という言葉を慰めと希望の思いでもって聞き取っていくことができたらと思うのです。