「十字架の死に至るまで」

フィリピ2:7b-8

震災から今年で9年が経とうとしています。私が福島から福岡に来て7年です。私は先日、福島を訪れましたが、その時に思ったことは、震災当時に比べて様子がだいぶ変わったなということでした。復興はだいぶ進みました。しかし、その一方で、私がいた時にはなかったようなしんどさ、苦悩、ジレンマもあるようにも思いました。積み重ねられた年月ゆえのしんどさがあるのではないかと思いますし、見た目では復興が進んでいるゆえに、逆に蓋をされ、見えにくくなっている問題もあるように思いました。

福島の現状について、私たちが忘れてはならないことがあります。それは原発事故は未だ収束していないということです。メトロダウンした燃料棒を回収できたわけでも、きちんと封じ込められたわけではないのです。そもそも国の非常事態宣言は未だ解除されていません。ですが、私たちは何となく、原発事故が落ちついてしまっているかのような印象を持っているのではないでしょうか。ですが、原発の周辺には未だ様々な課題がありますし、それらの課題は待ったなしの状況になっています。特に原発事故によって生じた汚染水や汚染土はやり場がなくなり、アップアップの状況です。汚染水を海に放出するしかないのではないかとの方針を政府が出してきていますし、汚染土に関して言えば、全国の公共道路の下に埋めてしまおうという計画が出されています。そのように、事故後の処理もいよいよ緊張感を持った選び取りが迫っています。そういう状況の中で、色々な思いを抱えながら、ジレンマや重荷を抱えながら、歩んでいる…。そんな福島の現状を思いました。

「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2:7b-8)

 この御言葉は「キリスト讃歌」の一節です。初代教会の中で歌われた讃美歌だったと言われています。その中で歌われていることの一つが、イエス・キリストは神の身分でありながら、人となられたということ、そして、十字架にまで降られたということでした。震災以降、私は何度もこの御言葉に励まされました。私たちは、何か良くないことや辛いことがあったりすると、自分が神様から見離されているんじゃないかと思ったりすることがあるのではないでしょうか。震災の出来事は、まさにそのような経験でした。しかし、たとえ今、困難な状況やしんどい思いを通らされていたとしても、私たちは決して神様から見捨てられてはいないんだ…。むしろ、このような時にこそ、イエス様は、私たちの一番近くにいて、私たちと出会ってくださるんだ…。それが私たちが招かれている信仰なのだと思います。私たちがそのように信じられる一番の根拠こそ、本日の箇所に記されている「イエス・キリストは十字架に降られた」ということにあるのです。十字架にまで来てくださったイエス様は、一番低いところにいる私たちのところまでもおりてきてくださる…。私たちと共にいてくださる…。私たちはそのように信じることができるのです。震災のただ中で、何度もこの十字架のメッセージに励まされてきました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Translate »