本日のローズンゲンの御言葉です。
「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。」イザヤ5:8
「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」Ⅰコリント12:13
本日、久しぶりに通常通りの礼拝を行なうことになりました。昨日、今日の礼拝に向けての準備をしていたところ、ある方から取材を受けました。「あらたにす」というインターネットのサイトをご存じでしょうか。朝日新聞と日経新聞と読売新聞による合同プロジェクトで、学生たちに記者となって、記事を書くニュースサイトがあります。その「あらたにす」から取材を受けたのです。記者の方は中央大学の学生さんなのですが、高校生時代、西南高校出身で姪浜教会の礼拝に何度か通っていたそうです。その方がこのコロナの問題で、教会はどうされているんだろうと疑問を持ち、当時通っていた教会に取材をしようということになったのです。姪浜教会の取り組みを紹介してくれていますので、良かったら、以下のURLをご覧ください。
Hさんという方なのですが、取材の中で「礼拝と同時に教会学校はどうされているんですか?」ということを聞かれたり、私が福島でのことに触れると、すぐに「そうですよね」と受け応えておられました。その様子に姪浜教会のことをよく知っておられるんだなと思いました。そんなHさんが記事の最後に自身の聖書を写真で撮って、その聖書に赤線で引いていた御言葉を紹介しておられました。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(新約聖書ローマの信徒への手紙5章3節から5節)
そして、こんな言葉で締めくくっておられました。
「これは筆者が最も好きな聖句の1つです。今の私たちにぴったりの言葉ではないでしょうか。コロナという名の苦難に耐え抜いた世界が、希望に満ちていること。誰しもがそう願っています。忍耐はいつまで続くのか。そのような不安が薄れ、コロナ禍の出口が見え始めた今こそ慎重にならなくてはなりません。北九州市では新たに26人の感染が確認され、恐れていた第2波が顔を覗かせています。緊急事態宣言が解除されたからと言って感染しないとは限りません。引き続き感染予防を。」
記事を読みながら、私のほうが励まされる思いでした。西南の中学や高校から色々な学生さんたちが来られます。多くの方は学校からの課題の一環として教会に来られているのだと思います。しかし、そんな中でも、学生たちが色々なことを考えたり、感じたりしておられるんだなということを改めて思いました。本日の箇所には次のように記されています。
「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」
先ほどの取材の中で、こんな質問がありました。「インターネットでの礼拝と、直接会っての礼拝は違いますか?」そこでこのように応えました。「やはり違いますね。インターネットでの礼拝も嬉しいですが、やはり直接顔と顔を合わせて礼拝できることは本当に嬉しいです。」すると、「そうですよね」とおっしゃってくださいました。
先ほどから色々な方が教会に来てくださっています。様々な都合で来られない方もいますが、改めて、そのお一人お一人と霊にあって繋がっていることを覚えながら、共に主を見上げ、礼拝を献げていきたいと思います。