「何とかして捕らえようと」
フィリピ3:12-16
本日の箇所で、パウロは「涙ながらに言います」と言いました。本日の箇所を読みながら考えさせられたのは、ここでパウロの言葉に耳を傾けようとしなかった人たちは、私たちとは全く関係のない人たちだろうかということでした。どうでしょう。パウロの時代、パウロの周りの多くの人たちがそうであったように、必死に神の言葉が語られても、それをきちんと聞こうとしなかったり、神様の思いとは正反対の方向に向かおうとしているということはないでしょうか。本日の御言葉を読みながら、何よりそのことが心に迫ってきました。そして、そんなことを思いながら、改めて、今の時代、私たちが御言葉の前にどう立っていこうとしていくのかということが問われているのではないかと考えさせられました。
数年前になります。私たちの教会で、佐々木和之さんをお迎えしてオープンチャーチを行ないました。佐々木和之さんは、1994年に大量虐殺が起こったルワンダで、平和構築のための働きを行なっています。佐々木さんをお迎えする際、私たちの教会では様々な学び会を行ないました。その中でこんな意見が出ました。「正直、佐々木さんのお話を聞いても、そんなことができるんだろうかと思ってしまう。ジェノサイドが起こった後、和解をして歩むなんてことが本当にできるだろうか。自分のこととして考えたりする時に、とても考えられない。」自分の家族を殺害した人が、村に帰ってきて一緒に住むことになった時に、そんなことを受け入れることができるだろうかということを話しあったのです。そんなことを話しあいながら、その話し合いで分かちあったことは、「そういう問いを忘れないようにしながら、佐々木さんをお迎えしましょう」ということでした。今ここで無理に答えを出してしまうのではなくて、悩みながら、考えながら、佐々木さんをお迎えしましょうと話しました。そうして、佐々木さんをお迎えしたのですが、どうだったでしょうか。佐々木さんのお話を聞いて、考えさせられたことや、教えられたこともあったのではないでしょうか。一方で未だ分からない…。答えが出ないというようなこともあったかも知れません。そして、それはとても大事だと思います。赦すということ、和解するということ、違いを超え、痛みや感情的な色々な思いを越えて、一つになって歩みだすということ、決して簡単なことではないのだと思います。そのことを考え続けることは大事だと思います。
今も時々にあの時のことを思い出します。あの時の経験も、私たちが御言葉の前にどう立っていこうとしていくのかということが問われた経験だったのではないだろうかと思います。私たちには根の深いところに、御言葉に聞けない私たちがいます。弱さがありますし、迷いやすさがあります。頑なさもあります。そんな中、頭の中では分かっているつもりでも、実際には御言葉に応答できないことがあります。ですが、そんな自分自身を自覚しつつも、御言葉がさし示すことに立ち止まって聞くことは大事なのではないかと思います。御言葉が私たちに「涙ながらに言います」と語りかけている言葉がある…。滅びから何とかして救おうと語りかけている言葉があるのだと思うのです。