「思い煩うのはやめなさい」

フィリピ4:6-7

本日の箇所には、「思い煩うのはやめなさい」と書かれています。この「思い煩う」という言葉は、ギリシア語で「メリムナオー」という言葉が使われています。この言葉が使われている箇所として有名なのはルカ10:38-42のマルタとマリアの記述です。ここでイエス様はマルタに対して「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10:41)と言われました。私はこのマルタとマリアの記述を読む時、この時のマルタはどういう思いだったんだろうと思います。マルタもマリアもイエス様が大好きでした。イエス様をもてなすことはマルタにとって本来、喜びだったのだと思います。ですが、そんなマルタがいつの間にか、不平不満で心が一杯になっていました。イエス様を精一杯もてなしたいという思いの中で、色々なものを抱え込んで、心がいらいらしたり、ささいなことに気をもんでいたり、余裕がなくなってしまっていたのではないかと思います。私たちもそういうことがあるかも知れません。色々なものを抱え込んで、思い煩ってしまっている中、どうしても、心がいらいらしていて、余裕がなくなり、周りのことに関しても「そんなんでいいの?」と裁き出してしまったり…。そういうことがあるかも知れないと思うのです。マルタはマリアがどうしても気になってしまいました。この時、マリアは、マリアなりの思いや考えがあって、イエス様に向き合っていたのだと思います。ですが、マルタはそういうことを思いやる余裕もありませんでした。マリアはこの時、どういう思いでいるのか、マリアが何を大切にしようとしていたのか、そういうことを思いやることも、理解しようとすることもなく、マリアは何もしていない、ダメだと勝手に決めつけ、裁いてしまうのです。私たちもそんなふうになってしまっていることがあるんじゃないかと思うのです。「思い煩う」とはそういうことなんだなと思うのです。

本日の箇所で「思い煩う」ということについて考える時、「思い煩う」自体が悪いのではないんじゃないかと思います。誰しも目の前の現実の問題に向き合い、その問題に真剣に取り組もうとする時、当然「思い煩う」ことがあるのだと思います。むしろ、そうすることは大事なことだったりするのではないでしょうか。ですが、私たちはしばしば、そのように「思い煩う」中で、心が迷いこんでしまうことがあるのだと思います。その典型がマルタなのかも知れません。そんな私たちに聖書は語りかけるメッセージがあるのだと思います。それは何より「主がおられるんですよ」という呼びかけです。目の前の問題に奮闘し、一杯一杯になってしまいそうになっている私たちに対し、主は「わたしがいるんだよ」と呼びかけてくださっているのです。私たちがこの神様に出会い、私たちの心の重荷の一切を神様に打ち明けていく時、私たちの心は解放されていくのだと思います。そして、その時にそれまで見えなくなっていたものが見えてくるということがあるのだと思います。心が狭くなって、一杯一杯になってしまった私たちが、本当に向き合うべきものに向き合うことができたり、周りの誰かを思いやったり、心にかけたりすることができるのだと思うのです。

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