本日のローズンゲンの御言葉です。
「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか/死ぬべき人、草にも等しい人の子を。」イザヤ51:12
「なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」1ヨハネ4:4
昨日の礼拝では、創世記16章の中から、アブラムのサライの記述を取り上げました。その中で、サライの苦悩や痛みについて分かち合いつつ、こんな話をしました。
「サライは、これまでの様々な思いをアブラムにぶつけ、アブラムに対し『わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです』と語りました。そんなサライの思いというものは痛いほど分かります。ですが、一方で『はたしてそうなんだろうか』という思いもあります。はたして、こうなったのは、アブラムのせいだったのでしょうか。サライ自身の問題もあったのではないでしょうか。ですが、それよりも大事なことは、この時、サライは、アブラムだけを見て、アブラムに自分のやり切れない思いをひたすらにぶつけているのですが、本当にサライが見るべきだったのは、そうだったんだろうかということです。サライが本体、この時、見上げるべき方、自分の思いをぶつけるべき方は、神様だったのではないでしょうか。これまでの歩みの中で、サライの歩みがどんどんおかしくなってしまったのも、このことが問題だったのではないかと思います。本来、神様を見上げるべきところで、神様以外のものを見上げてしまっている…。そういうところがサライの歩みをおかしな方向に向かわせてしまっていたのではないかと思うのです。そして、それというのは、まさに私たちの心の根っこに根深くある『ハマルティア(的外れ、罪)』の問題なのだと思います。私たちの心には根っこの部分にどうにもならない的外れの性質を抱えています。そして、その的外れの問題で、一番陥りやすいのが、神様を見上げるべき時に、神様以外のものを見てしまっているということなのではないかと思います。そこから私たちの歩みはどんどんおかしな方向に向かってしまう…。サライもそうだったのではないかと思うのです。」
そんなお話をしました。礼拝後、幾人かの方から、このことについての応答コメントをいただきました。そんな中、こんな声も聞きました。
「私たちは私たちなりによいことを一生懸命やろうとしているのですが、いつの間にか的外れの方向に向かってしまうことがあります。結果、私たちとしては『よかれ』と思ってしているはずのことで、結果、混乱を生み出してしまうということがあったりします。サライの姿を通して、改めてそのように思いました。」
そんなふうに、皆さんのコメントを聞くことができて、本当に良かったなと思いました。本日の箇所には、次のように記されています。
「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか/死ぬべき人、草にも等しい人の子を。」
本日の御言葉を読みながら、改めて、昨日のサライの記述を思い出しました。私たちはつい、神様以外のものを見て、恐れたり、気にしたり、悩んだりしてしまうことがあります。実際、私たちの目の前にある問題はうやむやにはできないような問題だったりするのだと思います。ですが、そのように目の前の問題や人と向き合いつつも、そのただ中におられ、生きて働いておられる神様を見上げていきたいと思います。神様を神様としていきたいと思います。この神様から、まことの慰めと励ましはもたらされるということを心に刻んでいきたいと思うのです。今週一週間もその神様と共にある日々となりますように祈ります。