「信仰と希望とは神にかかっている」

Ⅰペトロ1:17-21

本日の御言葉の冒頭には、私たちの歩みについて、それが「仮住まい」(1:17)なんだということが書かれています。「仮住まい」とはどういうことでしょう。仮であっても住まいはあるのですから、とりあえず、寝泊まりし、生活するために支障のないような場所はあるのだと思います。その場所でくつろいだり、ゆったりすることもできるのだと思います。その状況だけを考えてみれば、ある意味、落ち着いているし、問題もないのかも知れません。ですが、「仮」ということは、この状況がいつまで続くか分からないということでもあるのだと思います。今日は何事もなかったような穏やかな一日を過ごせたとしても、明日も同じとは限らないのです。明日になってみると状況が変わってしまって、そこに住めなくなってしまうようなこともあり得るのだと思います。「仮住まい」とはそういうことなのではないでしょうか。そして、そんなことを思います時に、この「仮住まい」という言葉が今の私たちの状況にも迫ってくるのではないかと思います。このコロナの状況の中で、私たちは社会のいたるところで、そういう思いを通らされていたりするのではないでしょうか。

本日の箇所から考えさせられたことは、私たちが今の歩みの中で「仮住まい」であることを感じているとするなら、その中で問われていることがあるんじゃないかということです。本日の箇所で言うなら、まず私たちが「何を畏れて歩んでいるのか」ということが問われているのだと思います。1:17には「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(1:17)と記されています。私たちが仮住まいをしているなら、その間、私たちは「畏れる」べきものをしっかりと定める必要があるんだということが言われているのです。このことは大切なことなのだと思います。仮住まいの状況で、宙ぶらりんに思える中、私たちが「畏れる」べきものをしっかりと定めていく…。そのことは私たちにとっての心の重石になっていくのだと思うのです。宙ぶらりんの状況の中で、ゆらゆらと自分が定まらずにゆれている中で、私たちを一つのところに踏みとどまらせる…。そんな重石になっていくのだと思います。1:17では「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけている」とも書かれています。この方を畏れなさい…。あなたの人生の重石としなさいと呼びかけられているのです。私たちが信じる父なる神は、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方」です。言い方を変えるなら、私たち一人一人をちゃんと見ていてくださっている方でもあります。よいところも、そうでないところも、私たちをちゃんと見ていてくださって、公正に判断してくださる方なのです。たとえ、誰とも会えないようなところで、一人悶々と日々を過ごしている時も、そんな私たちの思いもちゃんと見ていてくださっています。そんなふうに私たちが信じる神は、私たちをちゃんと見ていてくださっているのです。だから、安心もできますし、一方でいい加減なこともできない…。そんな思いにさせられる時、私たちの心は一つのところに定まっていくのではないかと思うのです。

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