「御心のままに」

マタイ26章36-46節

 ずいぶん前に読んだ本にこんなことが書かれていました。

「私たちが祈れないとすれば、それは怠けているからではなく、祈ることが力だと信じることができないでいるからではないでしょうか。どこかで、自分の力で生きようとしているからではないでしょうか。祈りの力を知り、自分は祈りなしに生きることはできないというのは私たちにとって何よりの祝福だと知っていたいと思います」。

本を読みながら、「自分にとって、祈りとは何だろうか」と考えさせられました。それまで私の中で「祈り」について考える時、どこか「そうしなければならないもの」という意識があったように思います。ですから、「祈れない」というと、どこか自分がクリスチャンとして怠けているからではないかと考えていました。しかし、そういうことが問題ではないんだなと教えられました。そうではなく、自分の中で「祈ることは力だ」ということがすっかり抜け落ちてしまっていること…。いつの間にか、自分の力で生きようとしていること…。そういうことが問題なんだなと気づかされたのです。そんな私が祈りの力を知り、「自分は祈りなしには生きられないんだ」という知る時、本当に力が与えられるし、それは何よりの祝福なんだということを教えられました。実際、本当に祈っている人というのは、そんな思いで祈っているのだなと思うのです。宗教改革者マルティン・ルターの逸話があります。ルターは宗教改革の大変忙しい日々の中で、毎朝の祈りの時間を何より大切にしていました。ある時、友人から「君はこんなに忙しいのに、よく祈れるね」と言われたそうです。すると、ルターはこんなふうに答えました。

「もし私が毎朝2時間祈らなかったら、その日一日悪魔にやられてしまいます。私にはあまりに沢山の仕事があるので一日3時間祈らなければどうしてもやっていけないのです。」

この言葉にルターにとって祈りとは何だったのかということがよく表されているのではないでしょうか。ルターは自分の弱さをよくよく知っていて、祈らないではいられない…。そんな思いで祈っていたのです。私たちはルターのような思いで祈りに向き合っていきたいと思います。祈りの力を知り、祈りなしに生きることはできない自分を知っている…。それゆえ、祈ることを大切にしていきたいと思うのです。祈りの中で、私たちは「本当の自分」を取り戻すことができます。私たちが抱えているものもそのまま神様に打ち明けることができるのです。誰にも言えないような悩みごとだったり、煩いだったり、心に秘めた願いだったり、呟きだったり、訴えも、そのままに主に打ち明けていくのです。そうすることが赦されているのです。私たちにとって、祈りがそういう祈りになっていく時、祈りは、かけがえのないものとなるのだと思います。「しなければならない」ものではなく、「しないではいられない」ものとなっていくのだと思います。私たちは祈りに支えられ、その祈りから平安を与えられていく…。そして、祈りを通して、私たちは日々、新たに立っていくことができるのだと思うのです。

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