本日のローズンゲンの御言葉です。
「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され/わたしの魂は慰めを受け入れません。」 詩編77:3
「主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」 2テサロニケ3:5
本日の箇所には、次のように記されています。
「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され/わたしの魂は慰めを受け入れません。」
ここには「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます」と記されています。この御言葉は、私にとって大変思い出深い御言葉です。一つ目の思い出は、2011年の東日本大震災の時のことです。
東日本大震災発生直後、当時、宣教研究所の運営委員会の委員長だった吉高先生が私に葉書を送ってくださいました。その葉書に墨字で「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます」と書かれていました。吉高先生の励ましや祈りを感じながら、いただいた葉書を牧師室の壁に貼り付けることにしました。震災後の働きをしながら、度々、この葉書の御言葉に励まされたり、教えられてりしてきました。そのような意味で、思い出深い御言葉です。
もう一つ、「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます」という御言葉を読む時、思い出す言葉があります。それは、ある人が語った、こんな言葉です。
「大変な時に神様に頼るなんて、『困った時の神頼み』みたいで嫌だ。」
その方はよく私にそんなことを言っていました。すると、その方に対して、別の人がこんなふうに言っていました。
「『困った時の神頼み』いうのは、困った時だけ神様を求めて、困ったことが無くなると神様から離れてしまう…。そういう人のことだと思う。確かにそれはよくない。けれど、もう一つ、『苦難は信仰の母』という言葉もあるんだ。その人は、苦しいこと、困ったことを通して、神様を求めるようになるのかも知れない。けれど、苦しい時だけ神様を求めて終わりではなく、そのことをきっかけにして、神様への信仰が育まれていくんだ。苦難がその人にとって神様に出会う経験となっていく。それは素晴らしいことだと思う。」
そんなふうに話していました。この言葉も私の中で思い出深い言葉です。私たちは苦難の時、主を求めることが赦されています。しかし、その主との出会いというのは、苦難の時だけに終わるものではありません。苦難の時も、平穏な時も、変わらずに私たちを顧み、支え、導いてくださっている主を私たちは見上げていきたいと思うのです。
(鈴木牧人)