「あなたのことを知らないなどとは」
マタイ26章31-35節
信仰のスタートに立とうとする人から時々にこんな言葉を聞くことがあります。
「イエス様を受け入れたいけれど、自分に信仰を続けていくことができるだろうか」。
その人の言葉を聞きながら、私自身、よく分かると言いますか、そのような不安は、私にもあるように思います。本日の箇所を読む時、特にそんなことを思ってしまいます。本日の箇所には、イエス様から裏切りの予告を聞いた弟子たちの様子が記されていますが、もし、自分がこの時の弟子の立場だったらどうだろうと思ってしまうのです。信仰を貫くことができるだろうか・・・。それとも弟子たちのように、イエス様を裏切ってしまわないだろうか・・・。もしもの話をしても仕方ありませんが、そんなことを思うのです。そんなことをあれこれと考えながら、マタイによる福音書に記されている弟子たちの様々な反応が心に迫ってきます。26:22には次のように記されています。「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」(26:22)ここには、弟子たちの裏切りを聞いて、弟子たちが「まさかわたしのことでは」と言い始めた様子が記されています。私は自分自身を顧みながら、私の中にも、この弟子たちと同じような「弱さ」があるように思います。イエス様を信じ、従っているはずなのに、いざという時に神様から離れ去ってしまうかも知れない・・・。イエス様を裏切るのは、わたしかも知れない…。そんな弱さが自分にあるように思うのです。しかし、一方で思います。私は私なりに主を求めているつもりです。ですから、自分の弱さを自覚しながらも、「じゃあ、あなたはあの場所にいたとしたら、やっぱり逃げ出すのか」と言われたら、「はい、私は逃げ出します」などと言いたくないのです。弟子たちもそうだったと思います。弟子たちが「まさかわたしのことでは」と言い始める中で、ペテロが力を込めて言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。ここには対照的な二つの言葉があるのですが、この矛盾した二つの言葉が、そのまま、私の中にあるように思うのです。
そして、そんなふうに矛盾した二つの言葉が自分自身の中にあるということを思う時、情けないなと思ったりします。でも、何というのでしょう。そのように、私の中にあるこの矛盾した二つの言葉があるということを心にしっかりと受け止める時、そのことが、自分を正してくれているようにも思うのです。自分には、情けないけれど、そのような弱さがあるからこそ、自分はなおさら、神様に注目しなければいけないし、神様に繋がっていなければいけない…。そのような思いに自分自身が正されてきたように思うのです。
私がこのことについて考える時、いつも、私の中で反芻させられてきた御言葉があります。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ16:10)いい加減で、迷いやすい自分が、イエス様に繋がっていくためにできることは、今与えられている一つ一つの御言葉と自分なりに誠実に向き合っていくことから始まっていくんだなと思うのです。