「友よ、しようとしていることを」
マタイ26章47-50節
本日の箇所には、世界で最も暗い闇の出来事と言えるような記述が記されています。私たち人間が、まことの神のひとり子を捕らえ、十字架につけていった…。そのように世界で最も暗い闇の出来事、私たち人間が犯した最も愚かな罪の記述が記されているのです。
本日の箇所を読みながら、心に残る御言葉があります。それはイエス様がイスカリオテのユダに語った「友よ、しようとしていることをするがよい」(26:50)という言葉です。「しようとしていることをするがよい」というのは、言うなれば、相手方の自由をゆるしている言葉だと思います。そして、考えてみます時、イエス様が人々に告げ知らせた「福音」とは、まさにそのようなものだったと思うのです。イエス様は「福音」を通して、私たちに自由をさし示してくださいました。「こうしなければならない」そのような様々な縛りからの解放を福音を通して現わしてくださいました。本日の「しようとしていることをするがよい」という言葉も、それと同じトーンと言いますか、イスカリオテのユダに自由をゆるしてくれている言葉なのだと思います。しかし、本日の箇所で「しようとしていることをするがよい」という言葉を読む時に思うのです。「好きにしていいんだよ」と言われたからと言って、その通りに、何でもかんでも自分のしたいことをして、それが本当にいいのでしょうか。決してそうではないのだと思うのです。この時、ユダがしようとしていたことは、イエス様を裏切り、祭司長たちに引き渡すことでした。たとえイエス様が「しようとしていることをしなさい」と言われたからと言って、そうすることは決して良いことではありませんでした。
そんなことを思いながら、考えさせられるのです。私たちは時に神様から与えられた自由を取り違えてしまうことがあるのではないでしょうか。私たちは本当に愚かです。神様から与えられた自由を時に声高に叫びながら、誤った歩みに向かい、行きつくところまで行きついてしまうことがあるのだと思います。その最たる姿が、本日のユダの姿なのではないでしょうか。私たちはイエス様から与えられた自由を取り違えて受け止めている時、ユダのように神様の思いからどんどん外れてしまい、ついにはイエス様を十字架につけてしまう、そんな愚かなことまでしてしまうのです。イスカリオテのユダは、ある意味、イエス様の言われた通りに、自分が思うまま、自由に行動しました。しかし、そんなユダというのは、本当に自由だったのでしょうか。解放されていたのでしょうか。私にはそうは思えません。彼がしていることは本当に悲しいですし、彼の姿を見ている時、苦しそうにしか見えません。ユダはきっと色々なことにがんじがらめになってしまっていたのではないでしょうか。そして、もはや自分が何をしているのかも分からなくなってしまっていたのではないかと思うのです。そんなユダの姿というのは、私たちに問いかけているのではないでしょうか。私たちもユダと同じように神様の自由を取り違えてしまうことがあるのではないかと思うのです。そんな中、一見、自由に生きているようで本当に息苦しい、何かに抗っているかのような生き方に向かうということがあるかも知れないと思うのです。