本日のローズンゲンの御言葉です。
天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。詩編19:2
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。マルコ1:10-11
本日の箇所には、次のように記されています。
「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
この言葉を読みながら「あなたはわたしの愛する子」という言葉が心に留まりました。
私は以前イスラエルに行った時、「おそらくこの辺りが、イエス様がバプテスマを受けられた場所でしょう」というところに連れて行ってもらったことがあります。
その場所を見ながら、私は「ああ、かつて、ここで空が開けて『あなたはわたしの愛する子』という父なる神様の声が響いてきたんだな」と思い、深い感動が湧き上がってきました。
私はこの箇所を読む時、いつも思うのは、「イエス様の公の働きは、この父なる神様の言葉によって押し出されたんだな」ということです。そして、それは私たちに大切なメッセージを語っているのではないかと思います。
私たちは、信仰の歩みを踏み出していくにあたって、何よりもまず、どんなメッセージを握っていくのでしょう。そのことを思う時、イエス様がここで父なる神様から受けた言葉、荒野の現実のただ中で聞いた言葉を握っていきたいと思うのです。私たちの信仰の歩みには、荒野のような現実を通らされることがあるかも知れません。色々な厳しさの中で、疲れはてたり、心がカサカサになったり、自分が一人ぼっちに思えたり…。そういうことがあるかも知れません。しかし、そんな中、本日の箇所にある、父なる神様からの「あなたはわたしの愛する子」という呼びかけを握っていきたいと思うのです。
何故なら、まさに、この「あなたはわたしの愛する子」という神様からの呼びかけに生かされていくことこそが、私たちにとって「倒れない信仰」を持つことの秘訣だからです。
私たちが「倒れない信仰」を持つとは、私たちがどんなに揺るがされてもビクともしない堅固な信仰を持つことではないのだと思います。そうではなくて、私たちが私を愛してくださるかたにひたすら注目し、その愛に留まり続ける信仰を持つことなのです。
イエス様がそうであったように、常に父なる神様からの「あなたは私の愛する子なのだ」という言葉を心に留め、その神様との交わりの中に生きることなのです。信仰の世界というのは、一人ぼっちの世界ではありません。
また、一人よがりの世界でもありません。扉を叩いても答えてくれない、いるかいないかも判らない神をひたすら忍耐をもって信じぬく…。そのような世界ではないのです。信仰の世界には、常に対象があり、向き合うべき相手があります。信仰とは、そのような関係の中で生まれるものなのです。
ですから、私たちの心がもしも、不安で一杯になったとするなら、また、それらの不安のゆえに倒れそうになったとするなら、その不安をそのまま神様にぶつけるように、神様に寄りかかればいいのです。
神様はそんな私たちの弱さを必ずや受け止めてくださるのです。
私たちはたとえ歩みの途上で、揺らぐ事があったとしても、安心して、神様に寄りかかり、倒れそうになっても、問題を神様に明け渡していきたいと思うのです。
そのように私たちは神様に繋がっていく時、私たちはたとえ倒れたとしても、再び神様の愛に力を受け、立ち上がることができるのです。どんなに困難の中、孤独の中に置かれていても、神様の私たちへの「あなたも私の愛する子なのだ」という約束に踏み留まることができるのです。
私たちはそのように、神様に支えられ、歩みつつ、すぐに倒れてしまいそうな私たちが、「倒れない人」として、歩んでいくことができるのです。
(鈴木牧人)