「イエスを見つめながら」
ヘブライ人への手紙12章1-2節
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ12:1)
この御言葉でイメージされているのは、スタジアムの光景です。私たちがスタジアムの競技者として、競技をしていて、客席では、たくさんの人たちがそれを見つめているのです。ある先生がこの箇所からこんなことを言っていました。
「ここには私たちが『おびただしい証人の群れに囲まれている』と語られています。皆さんだったどうでしょう。色々な人から見られていることを嬉しいと思いますか。それとも緊張したり、嫌だなとか、見られたくないと思うでしょうか。たとえば、ここで私たちを見ている人たちが、私たちの全然知らない人たちだったり、私たちから遠いところにいるように思える人たちなら、私たちは見られていることをあまり嬉しいと思えないかも知れません。ですが、私たちを見ている人たちが、私たちにとって近くに思える人たちで、自分たちと同じだ、思いを分かち合える人たちだ、と思えるなら、そんなふうに見つめられていることにホッとしたり、励まされるのではないでしょうか。」
確かにそうかも知れません。私たちを取り囲む人たちが、私たちにとって近くに思える人たちで、自分たちと同じだ、思いを分かち合える人たちだ、と思えるなら、きっと、私たちはその眼差しにホッとしたり、慰められたり、励まされたりするのではないかと思います。
その先生の言葉を聞きながら、私が聖書の御言葉を通して一番分かち合いたいことはそういうことだなと思いました。聖書には、様々な信仰者が登場します。その人たちが生きた時代も状況も私たちとは違うかも知れません。しかし、この人たちは私たちと一緒だ…。私たちと同じように悩んだり、迷ったり、しんどい思いを通らされたりしているんだ…。私は何より聖書を読みながら、そのことを分かち合いたいと思っています。そして、そのことを知る時、聖書のメッセージが私たちの身近なものとなり、励ましになるのだと思うのです。
本日の箇所には、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と書かれています。この言葉を読みながら、私たちの罪の問題は絡みついているものなんだなと思いました。振り払っても、振り払っても、絡みついてくる…。それぐらい、根の深い問題…。それが、罪の問題なのだと思うのです。でもだからこそ、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12:2)という言葉が心に迫ってきます。もし、私たちが自分たちの罪の問題は解決されてしまったと思えたり、自分はもう大丈夫と思えてしまうなら、きっと、それほど切実な思いでイエス様を見上げなくなってしまうのかも知れません。正直、切実な思いでイエス様を見上げなくても、大丈夫に思えるのではないでしょうか。しかし、私たちが自分の中にぬぐえない罪の問題を感じからこそ、自分にはイエス様が必要を思うのではないかと思います。そして、教会の兄弟姉妹の交わりや支えが必要だと思うのです。