「神の愚かさ、神の弱さ」

コリントの信徒への手紙 一 1:22-31

本日の箇所には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(1:25)と書かれています。この言葉について、神学部の先生からこんな話を聞きました。
「ここでは『神の愚かさ』『神の弱さ』と言われているが、私たちの目には、時に一見、愚かや弱さにも映ることの中に、本当の賢さ、本当の強さがあるということがある。」
どうでしょう。私たちの目には、一見、愚かさや弱さに見えるのですが、実はその中に、本当の賢さ、強さがある…。はたして、そんなものがあるのでしょうか。そんなことを考えながら、私の中でふと思い出す一つのことがありました。
少し前のことですが、一人の姉妹が、「学校の友人のために祈ってほしい」と言っていました。その友人は色々なことで悩んでいるとのことでした。「友人として何かしたいのだが、どうすればいいのか分からない。とにかく教会に連れてきたい」と言っていました。その友人を教会が来るように一緒に祈ったのですが、残念ながら、来てくれませんでした。一緒に祈った私としても残念だったのですが、とりわけ、その姉妹はショックな様子でした。その姉妹の姿を傍らで見ながら思ったのは、私たちが愛に生きようとする時に、しなくてもよい苦労を通らされることもあるんだなということでした。私たちは相手を思うがゆえに傷ついたり、悲しんだり、苦労したりすることがあるのです。そして、それというのは、本当に愚かにさえ思えることがあると言いますか、そんなふうに相手に関わろうとしなければ、しないで済む苦労なのかも知れないと思うのです。相手なんてどうでもいいと思うなら、傷つくこともないのだと思います。そっちの方がずっと楽ですし、賢い選択にも思えたりするのでないでしょうか。そして、それというのは、信じるということについても言えるかも知れませんし、希望を持つということについても同様に言えるのではないでしょうか。
そのようなことを思う時、愛すること、信じること、望みを持つことは、時に愚かに思えますし、そうしようとすることで弱くさせられることもあるんじゃないかと思います。しかし、愛することは愚かなだけでしょうか。弱いだけでしょうか。決してそうではないのだと思います。一見、愚かさに思え、弱く思えることがあるかも知れませんが、そこにこそ本当に賢さと強さがあるのです。そのように考える時、1:25にある「神の愚かさ」「神の弱さ」こそ、愛すること、信じること、望むことなのではないかと思います。そして、その神の愚かさ、弱さの最たる出来事が、イエス・キリストの十字架だったのだと思うのです。イエス・キリストは十字架において、どれほどの苦労を通り、傷つき、疲れ、弱くなられたのか分かりません。しかし、それでも私たちを愛し、信じ、私たちに望みを抱いて歩まれたのです。そして、その十字架によって、私たちは本当の愛に出会い、信仰に出会い、希望に出会いました。この十字架によって私たちは救われたのです。それゆえ、十字架の意味を知らない人にとっては、イエスの十字架は、愚かさの極みに見えるかも知れませんが、信じる私たちにとっては、何よりも確かな神の力、神の知恵なのです。

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