「十字架の言葉」

コリントの信徒への手紙一 1:18-21

現在、教会学校の聖書の学びでは、マルコによる福音書を読み進めています。マルコによる福音書には、「群衆たち」が象徴的な形で登場します。彼らはその時代の権力者や宗教指導者たちから見捨てられ、社会から脇に追いやられ、弱りはて、様々な問題や病を抱えていました。そんな彼らは、必死になって、イエス様を求めていました。そして、イエス様は群衆たちに憐れみを注ぎ、様々な奇蹟を起こし、病を癒したり、悪霊を追い出すのです。このことについて、ある注解書には、「マルコは、イエス様を求める群衆、それに対して奇蹟を起こす人としてのイエス様を描くが、それを『御利益宗教』などと言って批判する目は全くない」と書かれていました。面白い表現だと思いました。確かに、問題や病を抱えている人々がイエス様に「助けて」と求め、それに対して、イエス様が様々な奇蹟をなされていく有り様というのは、見方によっては「御利益宗教」と言われてしまうかも知れません。しかし、マルコはそのように批判しないのです。それは何より人々の痛みを知っていたからなのだと思います。群衆たちの痛みや困窮した状況をよく知っているがゆえに、イエス様を求める群衆たちを外野から眺めて「そんなの御利益宗教だ」と批評したりしないのです。
ただ、このマルコによる福音書には、もう一つ、大切なテーマがあります。それは「神の子イエス」というテーマです。群衆たちは、切実な思いでイエス様を追い求めていきました。そして、実際にイエス様に出会い、御業を経験し、イエス様から多くの慰めや癒しに与っていきました。しかし、彼らはイエス様が神の子だとは告白できなかったのです。マルコによる福音書において、そのことを告白できたのは、ローマの百人隊長だけでした(マルコ15:39)。しかも、ここで百人隊長が見たイエス様は、様々な奇蹟をなさるイエス様ではなく、無力で、弱々しい、十字架のイエス様の姿を見て、「神の子」と告白したのです。
このイエス様と群衆、そして、百人隊長の姿を見ていく時、大切なメッセージが聞こえてくるのだと思います。私たちの信仰にとって、何より大切な信仰は、今も生きて働いておられるイエス・キリストを見上げることです。マルコによる福音書の群衆たちのように、イエス様に大胆に期待し、求めていきたいと思います。そんな中、イエス様から多くの癒しや恵みをいただくことができたとするなら、それは本当に素晴らしいことだと思います。しかし、私たちがそこで留まってしまっているとするなら、この群衆たちと同じになってしまうかも知れません。イエス様に何かを期待したり、イエス様の御業を経験したり、イエス様から多くの慰めや癒しに与ったりしているかも知れませんが、本当の意味で、イエス様が神の子だとは分かっていないのです。百人隊長がそうであったように、イエスの十字架が分からなければ、本当の意味でイエス・キリストが神の子だということは分からないのです。本日の箇所にも「十字架の言葉」は多くの人にとっては、愚かなものにしか思えないんだということが記されています(1:18)。まさに群衆たちにとってそうだったのだと思います。イエスの十字架に躓いた彼らは、本当の意味で、神の力も、神の救いも分からなかったのです。

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