「おひさまポカポカ」

ローマの信徒への手紙1章16節~17節

今日の個所でパウロが私たちに伝えてようとしていることは「神様の恵みは、私たちの行動の良し悪しに関わらず、一方的に、すべての人に注がれる」ということです。神様は何かを頑張って、成果を出した人にのみ、恵みを注いでくださるわけではありません。できない人に恵みを注がないと言うわけではありません。神様の恵みはやった・やらない、できた・できない、成功した・失敗した、あるいは傷ついた・傷つけられた、そういう分け隔ては一切なく、すべての人に恵みが与えられている、それが今日の個所でパウロが語っていることです。
今日の個所で「信仰義認」という言葉を思い浮かべる方もおられると思いますが、パウロはまさにそれを言っています。多くの場合、信仰義認とは「行いによってではなく、信仰によって義とされる」と理解されます。でも「信仰によって義とされる」の「信仰」が、やはり「すること」になってしまうのです。信仰という行動を起こした人が救われる、成果と考えてしまうのだとしたら、結局それは信仰義認ではありません。それは自分たちの頑張り、自分たちの積み上げてきたものの上に立とうとすることです。それはどんなに高く積みあがってもいつか崩れるものです。どんなに立派に見えてもそれは弱い土台にたち、すぐに崩れるものです。ここでパウロは信仰義認ということを神様から恵みを「受け取ること」だと言っているのです。
「すべての人に注がれているものを、受け取る」意外と難しいことで、どのようなことかと思いを巡らせて窓の外を眺めていました。そうするとちょうど窓から陽が当たってポカポカして気持ち良いいのです。そうしているうちに、受け取るということはこのようなことだという気がしてきました。日が当たるというのは、何か私たちの力で、手に入れることのできるものではありません。ただ一方的に私たちに注がれてくるものです。いいことをすると晴れて、悪いことをすると雨がふるのではありません。私たちの頑張りはまったく関係ありません。
そしてお日様はただ一方的であると同時に、どんな人も照らします。窓の外には様々な人が通りました。仲の良い友人、苦手な先生、気が合わなくていろいろな喧嘩をした友人が通ります、もちろんお日様はすべての人を平等に照らしてます。そこで私ができたことがありました。それは、もっと日が当たって温かい場所はないか探すことです。そしてもうひとつ、それは暖める場所を変えたということです。胸の側を温めたり、背中を温めたりすることでした。そして私はさっきまでよりも、たくさん受け取り、たくさん温かくなったのです。
今、私たちにできることはなんでしょうか?私は恵みのために頑張るということよりも、恵みをどうしたらもっとうまく受け取れるかを探すということが、できる事なのだと思います。どんな風に神様の恵みが私たちに、私たちの周りに起こっているだろうか?ということを探すことができるのです。そして、それはすべての場所でみつけることができるはずです。それが無いと思えるような場所に、真っ暗闇の中にでさえ、見つかるはずです。すべての人に注がれているのですから。                          (平野健治神学生)

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