本日のローズンゲンの御言葉です。
神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。詩編51:3
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。エフェソ1:7
ネット新聞に不登校の子を持つ親の会「やよい会」を紹介する記事が掲載されていました。
やよい会の発足は1984年3月で、不登校に対し、社会の理解はまだ著しく乏しかったそうです。
精神科医の診察でも原因は分からず、カウンセラーもほとんどいませんでした。
発足人の一人であるNさんの息子は、中学2年で不登校になりました。「専門家の指導も間違っていて、逆に子どもを傷つけてしまった。親同士でないと実態が分からないことに気付いた」親7人で始まった会であらゆる知恵を集め、互いの試行錯誤を披露しながら、道を探っていったそうです。毎月の例会には「風呂に入ってくれない」「料理を食べてくれない」「家庭内暴力で手が付けられない」などの悩みを共有しながら、子どもへの寄り添い方を学び合っているとのことでした。会が発足したころは「不登校」という言葉さえなく、当時使われていた「登校拒否」の方が本質を突いていたと感じるとのことでした。「本当は学校に行きたいのに行けない。それは深層心理が、命が、学校を『拒否』して体が動かないから。真面目でこだわりが強く、自分の純潔を守ろうとしている」。そんな子の心に目を向けず、現象のみをとらえるかのような「不登校」の単語が定着したことによって「社会が解決の糸口を失っているのでは」と疑問を投げ掛けています。
立ち直るには「まず親が子を受け入れること」とNさんは語ります。
「『学校に行かなくてもいいよ』と言葉を掛ける。でも、うわべだけだと表情ですぐ見抜かれる。本心からそう思わないといけない。そこまで腹をくくるのに5、6年はかかる。それからは先に進む」。他の会員の生の経験や情報に触れることで、価値観が変わって子どもを受け入れられるようになり、苦しみのトンネルから抜け出すことができた多くの会員がいるとのことでした。「やよい会」の記事を読みながら、私は福島でのことを思い出しました。
私が福島にいた時、郡山の教会員のメンバーで、同じように不登校の親の会を立ち上げていた方がいました。この方は「んだねカフェ」という居場所づくりをしていました。そのメンバーのOさんも、同じようなことをおっしゃっていました。「やよい会」の記事を読みながら、心に残ったのはNさんの二つの言葉でした。
「立ち直ってみれば、あれはいったい何だったのかとさえ思えるようになる。そんな話を聞くと大概のお母さんは楽になる。絶望しなくていいんだと分かるから」。「子どもとこんなに向き合える機会はない。今この時間は、将来きっと宝物になるはず」。大切な言葉だなと思いつつ、きっと、こういう言葉というのは、問題の渦中で、その問題を一人で抱え込んでいる時には出てこない言葉なんじゃないかと思いました。自分一人で問題を抱え込まず、その問題を共に共有することによって聞こえてくる、気づかされる言葉なんだと思うのです。
そんなことを思いながら、改めて、自分一人で抱えこんでしまわないようにすることの大切さを思いました。
不登校の問題もそうだと思いますが、私たちが自分一人で問題を抱え込まず、その問題を共に共有することによって、重荷が軽くなったり、視点が変えられたりすることがあるのだと思うのです。
本日の箇所には、次のように記されています。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」
「やよい会」の記事を読みながら、本日の御言葉がより心に迫ってきました。
私たちはそれぞれ欠けた部分を抱えていたり、できること、できないこと、色々あります。
しかし、そんな私たち一人一人は、共に、御子イエス・キリストにおいて、贖われ、赦され、恵みをいただいているお互いなのです。そのことを心に噛み締めながら、互いに「イエス様に受け入れられている者」同士として、互いを受け入れ、共に課題を分かち合い、祈りあっていくことができたらなと思わされました。   (鈴木牧人)

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