「主が来られるまでは」
Ⅰコリント4:1-5
私たちの信仰にとって「共に生きる」ということは大切なテーマです。聖書は私たちをそのような生き方へと招いています。その一番身近な場所が「教会」です。ただ、何というのでしょう。私たちが実際に「共に生きる」生き方を歩もうとする時、色々なことがあるのだと思います。トラブルが起こることもあると思います。そんな中、疲れたり、傷ついたり、自分を見失いそうになったりして、「こんな交わり持たなければ、もっと楽なのに」と思うこともあるのではないかと思います。そんなことを思いながら、本日の御言葉が心に迫ってくるように思いました。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」(4:3-4)。パウロはこれまでの宣教の歩みにおいて、散々周りの人から色々なことを言われてきたのだと思います。周りから誤解され、あれこれと心ないことを言われることもたくさんあったのだと思いますし、少なからず、それらの言葉に傷ついたり、しんどい思いもさせられることもあったのだと思います。しかし、そんな色々な思いを通らされつつ、パウロは語るのです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではない…。それどころか、自分で自分を裁くことさえしない…。わたしを裁くのは、ただただ主のみなんだと告白するのです。
本日の箇所の冒頭には、私たち一人一人が、「キリストに仕える者」なんだということ、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」なんだということが記されています。そして、管理者としての私たちに求められていることは、「忠実」であることなんだと言われています。私たちはこの御言葉をどんなふうに聞くでしょうか。すんなり「そうだな」と聞けるでしょうか。私の中には、ともすると、すぐに「自分ファースト」になってしまう自分がいます。そんな私にしてみれば、自分主体ではなく、神様主体で、神様に忠実であるということが中々聞けない自分がいたりします。でも、そういう自分がいるからこそ、この御言葉が大事だなと思うのです。すぐに独りよがりになって、自分のことしか見えなくなってしまったり、自分勝手に突き進んで迷ったり、その一方で、自分で勝手に孤独になってしまったり…。あるいは人との交わりに入ろうとすると、周りの目が気になって流されたり、振り回されたりしてしまう自分がいるように思うのです。そんな自分を思えば思うほど、自分がぶれないために、しっかりとイエス様を見上げることが必要なのだと思うのです。私の人生は、私だけの人生でもありませんし、私だけで何もかも抱え込んでいるわけでもない…。私の人生は、イエス様が共に歩んでくださっている人生であって、そのイエス様から大切な働きを託されている人生なんだ…。何よりもそのイエス様に信頼しながら、そのイエス様が託してくださったものに忠実に応えていくことが、私の務めなんだ…。そのイエス様に目を向けていく時、私の歩みが定まっていくのだと思うのです。