「わずかなものでも」
10月14日の主日礼拝では、香住ヶ丘教会の名誉牧師である藤井健児先生をお招きしてメッセージをいただきました。そのとき礼拝に出席された方は、お聞きになったと思いますけれども、藤井先生は幼い頃、片目をひき逃げ事故で失明し、そのことが原因で二十歳のときにもう片方の目も失明してしまったそうです。まさに人生これからというときに、両目の視力を失い、一時は自ら命を断つことを考えるほどだったとメッセージの中でお語りになっていました。
しかし、そんな大きすぎる苦しみと痛みの中にあった先生は、イエス様との出会いを経験され、しかもその後、神様からの呼びかけに応えて牧師としての献身の道へと導かれていった。そのような先生のお話しを聞きながら、私自身、同じ献身者として本当に励まされる思いがしました。しかし、同時にもし私が先生と同じ境遇に置かれたとしたら、はたして私は神様からの呼びかけに応えて、献身の道を踏み出す事が出来ただろうか?とそのような問いも浮かんできました。大きすぎる困難や苦難を前にして、無力感に苛まれながらも、神様に自分を差し出していく献身の一歩が踏み出せただろうか?もしかしたら出来ない理由を並べて、差し出すことを拒否するかもしれない。そのようなことを考えさせられました。
私たちは目の前にあるあまりにも大きな出来事や困難な状況を前にして、出来ない理由を並べてみたり、そのことで自分の無力さを正当化したり、目の前の困難に向き合うよりも、自己弁護のための材料探しをしてしまう。そしていつしか、その出来事や状況に向き合うことを諦めて、冷笑的になっていく。そしてそれは、その出来事が大きければ大きいほど、状況が困難であればあるほど、私たちはそのような方向に流されてしまうのではないでしょうか。
しかし、そのような私たちに響いてくるのが、まさにイエス様のあの問いかけではないでしょうか。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」「あなたはどうするのか?何をするのか?」そのような問いかけが聞こえてはこないでしょうか。
私たちはイエス様からのその問いにどう応えるでしょうか。あの少年のように神様からの求めに素直に自分のもっているわずかなものを差し出していけるでしょうか。大きな出来事や困難な状況を前にして、恐れや不安や迷いの中で、その一歩を踏み出すことを躊躇してしまうこともあるかもしれません。それほどまでに私たち人間は弱くて、自分の無力さに絶望してしまう存在だからです。
しかし、そんな無力な私たちが差し出すわずかなものをこそ、神様は祝福され豊かに用いてくださるのです。人の目にはどうしようもなく無力で役に立たないと思える、ちっぽけでわずかなものを溢れるほどの恵みへとかえてくださいます。そして私たちが、その溢れる恵みを数えていくときに、きっと私たちのもとには籠いっぱいになった神様の恵みが確かな重みをもって感じられることでしょう。そのとき私たちの目の前には、神の無限の豊かさが広がっているのですから。(川久保拓也神学生)