本日のローズンゲンの御言葉です。
「われわれの神がわれわれの先祖と共におられたように、われわれと共におられるように。」列王記上8:57
「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」ヘブライ6:12
本日の箇所には、次のように記されています。
「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。」
本日の御言葉のギリシア語の原文を調べてみたところ、「怠け者」というところで、ノートロイという言葉が使われていました。この言葉は、「鈍い」という意味があります。そんな中、岩波訳の聖書では、「あなたがたが怠け者とならず」ではなく、「あなたがたが鈍いもの〔になること〕なく」と訳されています。私としては、この訳し方の方が、すんなり意味が伝わってくるなと思いました。
それは、自分自身の歩みを振り返って、そう思うからです。時に、自分の中で、忍耐することができなくなってしまうことがあります。それには様々な要因が考えられますが、時々に振り返って思うのは、自分が色々なことを信じられなくなってしまう時、信じるべきものを見失ってしまう時、途端に忍耐することができなくなってしまう自分がいるように思うのです。そんな中、本日の箇所にある「信仰と忍耐」というものは、深く繋がっているのではないかと思うのです。私たちは、自分の中に信じるものを見失っている時、心がもろくなってしまって、忍耐することもできない…。
そんなことがあるのではないでしょうか。しかし、それとは反対に、色々な困難や課題があったとしても、その中で信じるものを見失わないでいられるなら、私たちは多少の困難にも耐えられるということがあるのではないかと思うのです。
そして、さらに思います。私自身、そのように、自分の中で、信じるべきものを見失い、忍耐できなくなってしまっている時、自分自身の心が鈍くなっているのではないかということです。
心が鈍くなって、きちんと見るべきものを見据えることができなくなっている…。そんな自分がいたりするんじゃないかと思うのです。そんな自分を思いながら、「鈍い者」となってしまうことと、「信仰と忍耐」を持てなくなってしまうことは繋がっているんじゃないかと思うのです。
日々の慌ただしさの中で、つい目先のことばかりに心奪われて、大切なものを見失ってしまいそうになることがあります。そんな中、本日の御言葉を読みながら、改めて、心鈍い者とされることなく、信仰と忍耐とに生かされていきたいと思いました。(鈴木牧人)