本日のローズンゲンの御言葉です。

「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」ヨブ42:5-6

「ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」マタ26:75

本日の箇所には、次のように記されています。

「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」

この箇所は、イエス様を三度知らないと言ったペトロが、かつてイエス様からそのように宣言されていたことを思い出し、激しく泣いたという箇所です。ペトロはこの時、どんな思いだったでしょう。ペトロはこれまでの色々な経験から色々な思いを抱えていたのだと思います。イスカリオテのユダや憲兵たちに対しての「許せない」という思い、やりきれない怒りや失望感、喪失感、色々な思いが渦巻いていたのだと思います。でも、それらのつぶやきや怒りや失望の思いというのは、正直、自分ではない、周りに向けられていたのだと思います。しかし、鶏の鳴き声を聞き、イエス様の言葉を思い出した時、ペトロはハッとさせられたのだと思います。周りのことをあれこれ言う前に、自分は何をしているのだろう…。信じられないことをしているのは自分じゃないか…。とんでもないことをしているのは自分じゃないか…。自分が赦せないと思っているようなことを自分がしているじゃないか…。

そのことに気づかされたのではないでしょうか。そんな中、ペトロは激しく泣いたのではないかと思います。

そして、そんなことを思う時、この鶏の鳴き声が「残酷だな」と思ってしまいます。ペトロは、この時、ただでさえ、弱りはて、心がボロボロになっていました。もろくなっていました。そんなペトロに追い打ちをかけるような鶏の鳴き声だったのではないかと思います。

そのように思う時、本当に「残酷だな」と思ってしまうのです。でも、その一方で思います。ペトロにとって、この鶏の鳴き声というのは、本当に辛いものであったかも知れません。でも、この鳴き声によって、ペトロは我に帰ることができたのではないでしょうか。何より、ペトロはこの鳴き声によって、イエス様の言葉を思い出したのです。

そして、やっぱり、イエス様は正しかったんだということを知らされたのです。そのように考える時、ペトロにとって、この鶏の鳴き声は、イエス様の変わらない真実を再確認する声だったのではないかとも思うのです。

思いもよらないことが次々と起こり、混乱し、何を信じていいのか分からなくなってしまった…。そんな中、真っ暗なトンネルを歩いていたように思えるペテロにとって、失いかけていた変わらない主の真実を取り戻し始める出来事でもあったのだと思います。そのようにして、救いの扉を開く、鳴き声でもあったのだと思います。

ペトロは、この後、悶々とした二日間を過ごします。その後、ペトロは復活のイエス・キリストに出会うのです。

そして、聖霊が彼らに注がれるのです。その時、彼らの中に何より与えられたのは、イエス・キリストへの揺るがない確信でした。その確信が与えられた時、彼らの歩みは、全く新たな歩みへと変えられたのです。

ペトロの姿を見ながら、ペトロは時々の自分自身の姿だと思います。真っすぐにイエス様を見上げ、イエス様を信じている姿を見ても、私たちにもそういうことがあるのだと思います。でも、そういう真っすぐさから時に思い上がってしまって、偉そうに、身の丈を超えたことを考えたり、語ったりしてしまう…。私も恥ずかしながら、そういうことがあるように思います。その一方で、何か問題があると、途端に心が弱くなってしまう…。本日のペトロのように、イエス様からどこか心が遠く離れてしまったり、信じるものが定まらなくなって、ふらふらと周りに流されてしまいそうになる…。そういうことがあります。そんなふうにペトロの姿というのは、そのまま、時々の私の姿そのものなんじゃないかと思います。そんな中、本日の箇所などを見る時、私自身が問われているように思えて、恥ずかしくもなりますし、心砕かれる思いにもなります。しかし、そのような紆余曲折を通られながら、ペトロは本当の意味でイエス様に捕らえられていったんだなということを思うのです。いずれにしても、本日の御言葉を読む時、私にとっての信仰の原点に立ち帰らされるように思います。(鈴木牧人)

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