「失敗しても、それでも」

サムエル記下12:15-25

私たちというのは、誰かが何か、失敗をしたり、過ちを犯したりすると、そのイメージが頭に残って離れないということがあるのではないでしょうか。誰かが過ちを犯した後で、その過ちを無かったように考えるのは容易なことではありません。特に今の時代はそういうことがあるのではないかと思います。ともすると、そういう思いがエスカレートして、誰かが何か失敗をすると、そのレッテルだけが貼られて、その人が全否定されてしまう…。そんなことさえあったりするのだと思います。でも、どうでしょう。聖書はそんな私たちに呼びかけていることがあるのではないでしょうか。聖書の世界は、誰かが失敗をしたとしても、それで終わりではありません。どんな失敗をしても、そこから歩みを始めることができる…。そのような世界なのです。ダビデが犯したバト・シェバ事件も、そのことを物語っているのだと思います。ダビデは失敗しても、そこから再び歩み出しました。神様はそのようにダビデを導かれたのです。このことが無ければ、本日の箇所に記されているような、ソロモンの誕生はありませんでしたし、イエス・キリストがダビデの子として、お生まれになることもなかったのです。このことを改めて考えていきたいと思うのです。

もし私たちの生きる世界が、失敗をした後、そこから新しい歩みを始められるということが認められない世界だったら、どうでしょう。そんな世界になったら、何もできなくなってしまうのではないでしょうか。失敗を恐れて、誰からの批判もされないような無難なことしかできなくなってしまうのだと思います。加えて、互いに自分の失敗を認められなくなってしまうのだと思います。結果、言い逃ればかりしたり、失敗に蓋をして誤魔化したり、誰か他の人のせいにしたり…。そんなふうになってしまうのではないかと思います。それは本当に怖いことです。私たちが誰しも失敗をすることがあります。間違いを犯すことがあります。そんな中、たとえ失敗したとしても、そこから新しく歩み出せるということは、本当に大切なことだと思うのです。そして、さらに思うのは、私たちは、失敗の経験からこそ、本当に大事なことを学ぶことがしばしばあるということです。私自身の歩みを振り返ってもそう思います。正直、物事がうまくいったというような成功体験からより、失敗の経験からの方がたくさんのことを学んできました。失敗をし、苦々しい思いを通らされ、後々時間が経っても、あの時のことを思い出す度に、心が痛くなる…。そういう経験から本当に大事なことを学んできたことがあるように思うのです。ダビデも、バト・シェバ事件にまつわる一連の出来事を通して、そういうことをたくさん経験してきたのではないでしょうか。この一件を振り返って考えてみた時に、「今だったらこうしたのに」と思うようなことがたくさんあったのではないでしょうか。しかし、今さら、どうすることもできないこともありました。そんな中、だからこそ、少なくてもこのことを忘れはいけない…。もうこんな愚かなことをしないように自分自身の心にしっかりと刻みつけていきたい…。そういうことをたくさん経験してきたのではないかと思うのです。

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