「イエスは主である」
Ⅰコリント12:1-3
本日の箇所で、パウロは「霊的な賜物」(12:1)について語っています。このことについては、色々なことが言えますが、ひとつ思うことがあります。私たちにとって「霊的な賜物が与えられている」ことは、私たちが神様に確かに捕らえられているということの証なのではないでしょうか。目には見えない神様が、私たちの中に確かに今も生きて働いておられるということを、私たちは私たちに与えられている「霊的な賜物」を通して、確認することができるのだと思うのです。でも、このことは捉え方を間違ってしまうと、躓きにもなり得ることです。捉え方を誤ると、私たちは簡単に誰かを指して「あの人には霊的な賜物は与えられていない」と考えてしまうこともあるのです。実際、コリント教会にはそのような混乱があったのだと思います。ですから、パウロはコリント教会の人たちに対して、聖霊の賜物について、きちんと語る必要があったのです。
パウロは、本日の箇所で「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれた」(12:2)と語りました。コリント教会の人たちがまだイエス様のことを知る前、聖霊の賜物を受ける前の状態について、当時、人々は周りの人たちに誘われるがままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれていたんだということを語ったのです。この御言葉を読みながら、考えさせられることは、イエス様のことを知る前と今とでは何が違うんだろうかということです。それは一言で言うなら、彼らが偶像の神のもとではなく、教会に来るようになったということではないでしょうか。人々が偶像のもとに行くことなく、教会にやって来て、こうしてイエス・キリストを礼拝している…。そのことが、以前とは決定的に違っていたのです。聖霊の最も確かな業、聖霊の賜物の働きがここにあるのではないかと思います。周りに様々な声がある中で、自らの意志で教会を選び取り、礼拝を献げている…。私たちがそのようにさせられていることが、何よりも大切で、確かな聖霊の賜物なのだと思います。加えて、パウロは「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(12:3)とも語っています。人々が「イエスは神から見捨てられよ」などと言わないことと、「イエスこそ主である」と告白することこそが、聖霊が与えられていることの証しなんだと語ったのです。
パウロが語った二つのメッセージをぜひ心に刻みたいと思います。私たちは時に、自分が抱いている信仰が不確かに思えてしまったり、「自分には聖霊の賜物が与えられているんだろうか」と不安に思うことがあるかも知れません。しかし、私たちに聖霊の賜物が与えられた確かな証は、何より、私たちの周りに色々なことがある中、それでも教会を選び取っているということです。そして、色々な思いを通らされながら、「それでもイエス様のことを否定できない」という思いが与えられ、「イエス・キリストは主である」と告白していることです。このことが最も大切な聖霊の賜物なのだということを忘れないでいたいと思います。