「わたしはそれを喜んでいます」

フィリピ1:12-20

「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(1:18)。

 この御言葉を読む時、正直、エッと思わされます。パウロはこの時、牢獄に捕らえられていました。しかし、パウロはそのような状況の中で、牢獄に捕らえられていることを喜んでいるんだと語っているのです。パウロは何でこの状況を喜んでいるのでしょうか。1:13-14にはそのことが書かれています。自分が牢獄に捕らえられたことによって、福音が前進した…。だから、私は喜んでいるんだと語っています。パウロが捕らえられたことによって、パウロのことが話題となり、多くの人にパウロが宣べ伝えているキリストが知れ渡るようになりました。パウロはそのことを喜んでいるのでした。しかし、よくよくここに書かれていることを読みますと、複雑な思いにもさせられます。確かにパウロが捕らえられたことによって、人々がパウロのこと、キリストのことを話していたかも知れません。しかしながら、そんなふうに話している人たちの中には色々な人がいました。パウロに対して好意的に語っている人もいましたが、牢獄に捕らえられたパウロをさらにおとしめようと、色々なことを言っている人たちもいました。そんなふうに、必ずしも、皆が皆、パウロについて、キリストについて、良いように言っていたわけではありませんでした。しかし、パウロは「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と語っているのです。

本日の箇所には、そのようなパウロの言葉が記されているのですが、置かれた状況を考える時、「何でこんなふうに思えるの?」と思ってしまいます。私たちは本日の箇所からどんなメッセージを聞くことができるでしょうか。色々なことが言えるかも知れません。そんな中、私の中でまず思わされたことが、先週お読みした1:9-10の御言葉でした。

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(1:9-10)

 本日のパウロの姿を見ながら、この御言葉が心に迫ってきました。牢獄に捕らえられ、周りから様々なことを言われる…。そのような状況の中で、「だが、それがなんであろう」と語り、「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と語っている…。そのようなパウロの姿に、パウロはこの状況の中で、「本当に重要なことを見分け」ていったのだろうなと思います。それゆえ、こんな状況に置かれても、喜びを見いだすことができたのではないでしょうか。私たちはともすると、すぐに表面的なところばかり見てしまうことがあります。結果、落ち込んだり、心萎えてしまったり、躓いてしまったりすることがあります。でも、そんな中で、きちんと見つめるべきものを見つめ、「本当に重要なことを見分ける」ことができたらと思います。その時、本日のパウロのように、大変な状況に思えることの中に喜びを見いだすことができたりすることがあるのではないかと思うのです。

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