本日のローズンゲンの御言葉です。

「神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。」詩篇50:1

「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」2コリント5:19

現在、私たちの教会では信仰告白の学びを行なっています。毎回、様々な項目について分かち合い、それぞれの意見を交わしあっています。今週の箇所は「礼拝について」でした。「礼拝について」の言葉の中に、次のような言葉が記されています。

「私たちは礼拝において、私たちと神との関係を築いていきます。しかし、同時に礼拝は、主に連なる兄弟姉妹同士が、主を通して出会い、一つとされていく場所でもあります。私たちが礼拝を個人的な神との出会いの場のみで留めてしまうことは、この上なく残念なことです。神は礼拝の場で、私たち一人一人と個人的な関係を築こうとされています。しかし、同時に私と私の隣人を互いに、主に連なる兄弟姉妹として結び合わそうとされているのです。神は、私もその人も愛しておられるからです。

礼拝のイメージとは、『ゆるしの食卓』だと思わされます。『ゆるしの食卓』には、二つのものがあります。一つがゆるされる、もう一つがゆるすということです。 私たちは何よりイエス様からゆるされ、恵みの食卓に招かれています。しかし、私たちが実際にこの食卓につこうとする時、経験することがあります。それは私たち自身がゆるすという経験です。食卓につこうとする・・・。しかし、ふと隣を見渡した時、自分には受け入れられない人がその食事の席に同席したとします。その時、私たちはどうするでしょうか。『イエス様に招かれたのは嬉しい・・・。でも、あの人とは一緒に食事したくないから、どこか別の場所に行きます。』そのように答えてしまいたくなるかも知れません。しかし、それではその人自身、恵みの食卓を味わえないのです。礼拝は、『ゆるしの食卓』である・・・。私たちは何より、このことを覚えて、礼拝を通して、お互いに真心から受け入れ、祈りつつ、イエス様の愛に留まる者として、互いの関係を建てあげていきたいと願います。(マタイ5:23-25a)」

本日の箇所には、次のように記されています。

「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」 ここには「和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」ということが記されています。この御言葉を読みながら、今週の信仰告白の学びを思い出しました。そして、思ったのは、「ゆるしの食卓」とは、表現を変えるなら「和解の食卓」でもあるんだなということでした。私たちはイエス・キリストを通して、神による「和解の食卓」に招かれています。と同時に、和解の務めにも招かれています。本日の箇所を読みながら、改めてそのように思わされました。 (鈴木牧人)

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