「わたしは主を見ました」
ヨハネ20:11-18
今回、イースターを迎えるにあたって、次のような文言を載せたハガキを出しました。
「現在、教会では、キリストの十字架への苦しみを心に刻む受難節を過ごしています。このような時期に新型コロナウィルスの問題が深刻になり、心を痛めています。事態が一日も早く収束に向かいますよう、お祈りします。未だ先の見えない暗いトンネルのような状況が続いていますが、十字架の苦しみの後、三日後にキリストが復活されたように、この状況にあって、イースターの希望を見上げていきたいと思います。」
ハガキの裏側には絵を載せました。本日の聖書箇所の少し前の場面を描いた絵です。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(ヨハネ20:1)。ここにはイースターの朝、マグダラのマリアを始めとする女性たちが、イエス様の葬られた墓に出かけていった様子が記されています。彼女たちが出かけたのは「朝早く、まだ暗いうち」でした。状況としてはまだ、真っ暗でした。そこにマグダラのマリアやイエス様のお母さんのマリアが、手にともし火をもち、イエス様の葬られた墓に出かけていこうとしているのです。何でこんな絵を描いたのかと言いますと、この暗闇の状況が、彼女たちの心の状況とそのまま同じだったんじゃないかと思ったからです。イエス様が十字架にかけられ、彼女たちの心の中はまさしく「暗闇に覆われているような状況」だったのではないでしょうか。その暗闇の中を目の前のわずかな明かりを頼りに一歩一歩踏み出そうとしていたのだと思います。絵にはそんな彼女たちの様子を描いたのですが、上の方には茂みの向こうに空が明るさを帯びています。彼女たちは気づいていないのですが、朝はやって来ていたのです。同様に彼女たちの気づかないところで、すでにキリストの復活の出来事は起こされていました。絵ハガキにはその様子を描かせていただきました。
私がこの絵を描いたのは、東日本大震災が起こった一年後でした。当時はまだ全く先の見えない状態で、毎日毎日、とにかくその時に自分たちにできることを精一杯しているという状況でした。当時私はこの絵を描きながら、自分たちの今に重なってくるように思えていました。マグダラのマリアたちがそうであったように、私たちも真っ暗闇の中、か細い、小さな、小さなともし火を頼りに、とにかく一歩一歩、前に進んでいるような毎日でした。そんな中、思ったのは、マリアたちがそうであったように、私たちの気づかないところでも神様の御業は起こされているんだということでした。私たちの現実としては、目の前には先の見えない真っ暗な現実しか見えていないのですが、イエス・キリストの復活の出来事に繋がる神様の御業はすでに起こされている…。そのことを信じていきたいと思いました。そのような思いの中、描いたのが、この絵です。現在も先の見えない状況があります。そんな中で、わずかな明かりを頼りに、一つ一つのことをすることしかできない私たちがいます。しかし、そんなふうにあくせくしている私たちの背後では、すでにイエス・キリストの復活の御業は起こされていることを覚えていたいと思います。