本日のローズンゲンの御言葉です。

「神よ、我らはこの耳で聞いています/先祖が我らに語り伝えたことを/先祖の時代、いにしえの日に/あなたが成し遂げられた御業を。」詩篇44:2

「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」ルカ10:39

昨日は、「母の日」でした。「母の日」を迎えるにあたり、一枚のカードを作りました。そのカードに一編の詩を載せました。昨日の礼拝でも紹介しましたが、ニュージーランドで作られた詩で、英語圏の国では大変有名な詩だそうです。子育てに奮闘するお母さんのことをうたった詩です。

「今日、わたしはお皿を洗わなかった/ベッドはぐちゃぐちゃ/浸けといたおむつは/だんだんくさくなってきた/きのうこぼした食べかすが/床の上からわたしを見ている/窓ガラスはよごれすぎてアートみたい/雨が降るまでこのままだとおもう/人に見られたら/なんていわれるか/ひどいねえとか、だらしないとか/今日一日、何をしてたの? とか/わたしは、この子が眠るまで、/おっぱいをやっていた/わたしは、この子が泣きやむまで、/ずっとだっこしていた/わたしは、この子とかくれんぼした/わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、/それはきゅうっと鳴った/わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった/わたしは、この子に、/していいこととわるいことを、教えた/ほんとにいったい一日何をしていたのかな/たいしたことはしなかったね、/たぶん、それはほんと/でもこう考えれば、いいんじゃない?/今日一日、わたしは/澄んだ目をした、髪のふわふわな、/この子のために/すごく大切なことをしていたんだって/そしてもし、そっちのほうがほんとなら、/わたしはちゃーんとやったわけだ」

子育てに奮闘するお母さんへの感謝をこめて、この詩を載せさせていただきました。本日の箇所には次のように記されています。

「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」

本日の御言葉は、有名な「マルタとマリア」(ルカ10:38-42)の一節です。マルタとマリアの姉妹がいました。

この姉妹の家にイエス様一行が訪ねてきた時、マルタはイエス様をもてなすためにせわしく立ち働いていたのですが、マリアは主の足もとに座って、話に聞き入っていました。自分の働きを手伝おうとしない妹にしびれを切らしたマルタは、イエス様に対し、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10:40)と訴えるのです。すると、イエス様はマルタに対し、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(10:41-42)と語ったのでした。イエス様がマリアについて語った「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」という言葉を思いながら、ふと昨日紹介した詩が重なってくるように思いました。子育てに奮闘する中で、思うように家事ができずに「人に見られたら/なんていわれるか/ひどいねえとか、だらしないとか/今日一日、何をしてたの? とか」と落ち込んでいるお母さんが、それでも「この子のために/すごく大切なことをしていたんだ」と思い直す姿というのは、どこかマリアと重なって来るところがあるのではないかと思うのです。昨日の礼拝メッセージでもお話ししましたが、今、この時というのは、より一層、私たちは自分たちの足元にある「私たちが本当にしなければならないこと」にしっかりと目を留めていくことが必要なんじゃないかと思います。

つい「多くのことに思い悩み、心を乱して」しまいそうになる私たちがいます。ふと気づけば、「今日一日、何をしてたんだろう」と落ち込んでしまうこともあります。何もかもできないかも知れません。できることはわずかかも知れません。しようと思っても上手くいかないこともあるかも知れません。ですが、私たちなりに本当にしなければならないことは何かを見失わないようにしながら、できることを一つ一つしていけたらと思います。そして、その「しなければならないこと」というのは、私たちなりに精一杯誰かを思いやり、イエス・キリストを思いながら、私たちのできる働きをなそうとしていくことなのだと思います。主はそんな私たちを見てくださっているのだと思いますし、この詩にあるように「あなたはちゃーんとやっているんだよ」と声をかけてくれるのだと思います。そして、主はそんな私たちの思いを越えて生きて働いてくださるのだと思うのです。(鈴木牧人)

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