本日のローズンゲンの御言葉です。
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。詩34:7
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。ルカ11:10
土曜日に「東日本大震災の祈りとシンポジウム」が行なわれました。
その中で金丸先生がこんな話をしてくださいました。
震災から四年ほど経った時のことです。
被災地の仮設住宅で住まわれている方から、こんな話を聞いたそうです。
その方が、ある時、九州に仕事で出かけたそうです。
同僚と空港のターミナルでお土産を見ていたそうですが、そのお土産を見ながら、突然、涙が込み上げてきたということでした。
なぜなら、そこで売っている九州のお土産をほとんど知っていることに気づいたからです。
九州の方々が仮設支援のために持ってきてくださったお土産がそこに並んでいたということでした。
一緒に行った同僚は初めてみるお菓子ばかりで、感動していたそうですが、自分がそれを見ながら、「自分は全部見たことがあったし、全部食べたんだ」と思って同僚の姿を見ていたとのことでした。
「それはぜんぶ、バプテストさんが持ってきてくださったお菓子だったんだ」。
そんなことを考えていたら、涙があふれてきたそうです。
そんなお話をされながら、皆さんの支援の働きは被災地の方々に届いているんですよという話をしてくださいました。
本日の箇所には次のように記されています。
「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。」
本日の箇所を読みながら、改めて土曜日のシンポジウムを思い出しました。
神様が私たちを苦難から救ってくださるという時に、神様ご自身が働かれ、私たちを救い出してくださるということもあるのだと思います。
ですが、同時に、神様は様々な人を用いて、救いの業を起こされるということもあるのだと思います。
震災支援を振り返ってみる時に、そのことを痛感させられます。
金丸先生のお話しのように、震災の時、私たちは全国の諸教会、いや、それだけではなく、全世界の様々な教会から支援をいただきました。
その支えによって、励まされ、助けられてきたことを思います。
そのような繋がりの真ん中にはいつも主がおられることもひしひしと感じていました。
そんなふうに私たちの神様は、人を用いて救いの業を起こされてきました。
そして、そのように用いられる「人」とは、私たち一人一人でもあるのだと思うのです。
実際、私たちの教会は、先日、福島の三教会や、盛岡の教会などに献金を送らせていただきました。
そのことを本当に皆さん喜んでくださっています。
そんなふうに主によって結ばれ、用いられながら、支えあい、励ましあって、歩むことができることが何より感謝です。
その信仰を大切にしていきたいと思います。