「一本の灌木の下で」
創世記21:9-21
本日の箇所には、サラとハガル、そして、イサクとハガルの息子イシュマエルとのトラブルが記されています。イサクが乳離れをした時のことでした。その祝宴に、イシュマエルがイサクをからかったのです。この時、イシュマエルは17-18歳だったと思いますので、子ども同士が戯れていたという感じではありませんでした。小さな子どもを大きなお兄ちゃんがいじめるという感でした。その様子を見て怒ったのが、サラでした。サラは乳離れの祝宴の大切な場所で、自分の愛する子どもがからかわれてしまう…。しかも、相手はハガルの息子なのです。とても、見過ごしにはできず、アブラハムに対して「あの女とあの子を追い出してください」と訴えました。アブラハムはサラの申し出を受け入れます。こうして、ハガルとイシュマエルは、アブラハムの家から追放されてしまうことになったのです。
本日の箇所を読みながら、「こういうことってよくあるんじゃないか」と思います。ですが、心痛めますし、「残念だな」「何とかできなかったのかな」と思います。と言いますのは、これまでにだって、サラとハガルの間にはトラブルがありましたし、その中で「もうとても一緒にやっていくことはできない」と思えたこともあったからです。その時は、神様の取り扱いで、お互いに色々な思いを乗り越えて、一緒にやって来ることができました。二人がもし、そのまま、きちんと神様のことを見上げていくことができたらどうだったろうと思います。お互いのことも、もっと違った形で向き合うことができたのではないでしょうか。ただ、そんなことを言っても、中々そういうことができない…。サラとハガルの姿というのは、そのことを物語っているのではないかと思います。そして、それというのは、まさに私たち自身の姿でもあるんじゃないかと思います。
本日の箇所で、サラが残って、ハガルが去ることになります。その状況だけ見ると、まるでサラが正しくて、ハガルが間違っているような構図に見えるかも知れません。ですが、はたしてそうなのかなと思います。サラにはサラの言い分があり、その正しさもあったかも知れません。ですが、サラもこれまでの歩みの中で、ハガルのことを傷つけたり、悲しませてきたことがありましたし、本日の箇所でサラが主張していることが御心に適っていたとしても、サラが純粋に神様の御心を求めてそう言ったわけではなかったと思います。
むしろ、本日の箇所で覚えていたいのは、アブラハムの姿です。アブラハムは、サラとハガル、イサクとイシュマエルの問題のはざまで、心を痛めていました。個人的には色々なことを思っていたと思います。ですが、アブラハムは最終的に神様を見上げたのです。そして、神様に聞きながら、神様の御心に従っていこうとしたのです。そんなアブラハムの姿に教えられます。私たちも人と人との関わりの中で、悩んだり、迷ったりすることがあります。心痛めたり、どうすればいいのか分からなくなることがあります。そんな中、本日のアブラハムの姿から学ぶことができたらと思います。様々な思いがある中で、アブラハムは神様に聞き、神様の御心を選び取っていきました。その姿に学んでいきたいと思うのです。