本日のローズンゲンの御言葉です。
「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」出エジプト1:17
「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」使徒5:29
本日の箇所には次のように記されています。
「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」
この御言葉は出エジプト記の冒頭の記述です。エジプトに長い間、寄留していたイスラエルの民は、エジプトで酷い迫害を受けるようになっていきます。その大きな出来事の一つが、生まれてくる子どもたちが男の子の場合、殺してしまえというものでした。しかしながら、助産婦たちはこの命令に聞き従いませんでした。助産婦たちは、エジプト王の命令に背いて、男の子が生まれてもそのまま生かし、ファラオには「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」(1:19)と言って嘘の言い訳をしたというのです。本当に勇気のある行動だと思います。聖書にはそんな助産婦たちの行動について、「神を畏れていたので」と書かれています。そんな聖書の記述を読みながら、出エジプト記の最初の頃に度々登場する、様々な人たちの姿について考えさせられました。出エジプトの出来事は、圧倒的に神様の力強い御業の記述です。エジプト王ファラオでさえ圧倒するような数々の御業が起こされ、葦の海さえも二つに分けられるような神の奇蹟を通し、イスラエルの民はエジプトから脱出するのです。しかしながら、そんな神様の御業の背後に、様々な人たちの思いや祈りがあったのだということを思います。
神様への畏れを心に持ちながら、ファラオに対してささやかな抵抗し、イスラエルの子どもたちを何とか救おうとした助産婦たちがいました。また、生まれた男の子が愛しいばかりに、命がけで子どもを匿い、最後にはナイル河に逃がした母親がいました。苦難の只中で必死の思いで神の祈りを献げる人たちがいました。そういう様々な人たちの思いや祈りによって、イスラエルの民の命は守られ、モーセという指導者が立てられ、神の御業が起こされていくことになったのです。
そんな出エジプト記の記述を読みながら思わされます。今も私たちは本当に困難の只中に置かれています。そのような状況の中にあって、自分たちにできることの限界を痛感させられることがたくさんあります。こんな私たちに何ができるだろうかと思わされてしまうことがありますが、その中にあって、出エジプト記冒頭の人々のことを思い出していきたいと思います。色々なことがある中で、何より神を畏れることを人生の基軸としながら、時にこの世に必死に抗いながら生きていった人たちの姿…。命が軽んじられる時代の中にあって、それでも目の前の小さな命を愛おしみ、その命を何とか守ろうと奮闘した人たちの姿…。そして、何より絶望的と思えるような状況の中にあって、それでも神を見上げて、祈り続けていった人たちの姿…。これらの人たちの姿を心に刻んでいきたいと思うのです。