「泣いて、怒って、しかし」

創世記27章30節-28章9節

 ヤコブから祝福を奪われたエサウは最初、叫び声をあげて激しく泣きました。それから、ヤコブのことを殺してやると怒りに燃えるようになっていきました。そんなエサウの姿を見ながら、「泣いて、怒って、しかし」というメッセージ題をつけました。本日の箇所のエサウの姿を思う時、泣きたい気持ちも分かりますし、その後、腹が立って仕方なくなった思いもよく分かります。こんなことされたら、誰でもそうなってしまうのではないでしょうか。

しかし、一方で思うのは、こうなってしまったのは、エサウ自身の問題もあったんじゃないかということです。そのことをエサウはどう思っていたのでしょう。エサウを騙し、祝福を奪ったことはとんでもないことですが、そもそもヤコブは、そんなことをしなくてもよかった部分がありました。創世記25:27-34で、エサウはヤコブに対して、長子の権利を譲り渡していたからです。ヤコブにしてみれば、「兄さん、僕がすでに長子の権利を譲り受けているんですから、長男が受け継ぐはずの祝福も本当は僕のものなんですよ」という思いもあったと思います。ですが、イサクはエサウに祝福を受け継がせることにしたのでした。結果、このような形で祝福を受けるしかなかったのです。そこには、ヤコブとしても、色々な思いがあったのではないでしょうか。しかし、このことに関して、エサウはどんなふうに思っていたでしょう。27:36を読むと、エサウは、ヤコブに長子の権利を渡したことさえ、ヤコブの問題だと考えていたことが分かります。

そんなエサウの姿を見る時、エサウの気持ちは分かるけど、「しかしね」という気持ちが沸き上がります。「泣きたいよね、腹が立つよね、しかしねぇ」と思うのです。エサウは、泣いて、怒って、しかし、自分自身、立ち止まって、もう少し考えなければいけないこと、向き合わなければいけなかったことがあったのではないでしょうか。そして、そんなエサウのことを思いながら、時々の自分のことが心に迫ってきました。自分も時にエサウのようになっていることがあるんじゃないかと思うのです。色々なことに泣いたり、怒ったり…。しかし、その一方、実は自分自身、立ち止まって、向き合わなければいけないことがある…。自分が問われていることがあるということがあるかも知れないと思うのです。

聖書には「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:3-4)という御言葉があります。まさに本日のエサウの姿を思う時、この聖書の御言葉が心に迫ってきます。この御言葉は、私にも語りかけられているのだと思うのです。エサウという人を見ていると、とにかく、問題があっても、それを他の人のせいにばかりして、自分の問題に気づきません。結果として、自ら、大切なものを取りこぼしていってしまうのです。

本当であるなら、エサウは誰よりも神様の祝福に近いところにいた人だったはずでした。しかし、エサウはどんどん、神様の祝福や恵みを取りこぼし、そこから離れて行ってしまうのです。そんなエサウの姿を見る時、恵みを受けると言う時に、自らに砕かれるということは大事なのだと思うのです。

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