本日のローズンゲンの御言葉です。

「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」エゼキエル34:12

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネ10:11

本日の箇所には、次のように記されています。

「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」

ここには、神様を「牧者」として、そして、私たちを「羊」として例えながら、メッセージが語られています。牧者と羊というと、私の中で思い出す話があります。私が小さい頃、教会学校でよく読んでもらった紙芝居です。こんな話でした。小羊が主人公で、お母さん羊から、「群れからはぐれてはいけないよ」と言われていたにも関わらず、言うことを聞こうとせず、虫と遊んだりして、迷子になってしまうのです。その後、羊飼いに見つけてもらうのです。私は幼心にその紙芝居を見ながら、「迷子になったのは、ふざけて遊んだ子羊が悪い」というような思いで見ていました。しかし、必ずしも、そういうことでもないようです。羊というのは、もともと、温順な動物です。しかし、その反面、とても警戒心が強くて、臆病であり、群れから離れたがらない動物だそうです。「1頭の羊を捕まえるよりも100頭の羊を捕まえる方がたやすい」 という言葉があるくらいで、群れからはぐれてしまった羊を捕まえようとすると、羊は不安と恐怖心から逃げまどうばかりでなかなか捕まえることはできません。しかし、その羊が群れの中にいると、群れ全体を簡単に囲いの中に追い込むことができるのです。群れにいる時は、安心しているからです。そんな動物でありますから、ふざけて、自分から群れを離れてしまうようなことはありません。じゃあ、何で、そんな羊が群れから離れてしまうのかというと、イスラエルに行った時、ガイドの方にこんな説明を聞かせていただきました。羊というのは、目が横についていて、視界が非常に広くて、頭を前に向けたまま、後ろを向くことができるのですが、その反面、広く色々なものを見ようとしているがゆえに、全体的に見ているものがぼやけてしまっているそうです。そんなふうにたくさんのものが目に入っているにも関わらず、その全てのものがきちんと見えていないのです。そんな羊が、聖書の舞台となっているパレスチナ地方で飼っていると、迷子になってしまうことがありました。今もそうですが、パレスチナ地方で、羊を飼っている状況というのは、大抵荒れ野で、羊の餌となる草というのは、荒野が広がっている中で、あちらこちらにチョコチョコと草が生えているようなのです。そんな中、羊飼いが羊を放して餌を食べさせていると、羊はこっちの草を食べ、あっちの草を食べとしています。その内に目に映る餌を探しながら、どんどん群れから離れてしまい、迷子になってしまうことがあったそうです。それは、決して不可抗力というか、羊は悪気があったわけではありません。本人は決して群れから離れたがっていたわけではありません。それにも関わらず、迷ってしまうのです。その姿を思う時、時々の自分自身に重なってきます。警戒心が強くて、臆病で、一人ではとても生きていけない…。加えて、たくさんのものを見ているようで、実は色々なことがぼんやりとしたままで、肝心なものはほとんど見えていなくて、分かっていない…。目先のことしか見えていないので、自分だけで進み出すとすぐに迷ってしまう…。まさにそういうことがあるなと思うのです。そんな私たちを主はご存じで、私たちを見出し、すぐに神様から迷い出てしまう私たちを御自身の御許に連れ戻そうとしておられる…。それが「牧者」としての主の姿なんだと思わされます。

鈴木牧人

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