「獅子は身を伏せる」
創世記49章8-12節
本日の御言葉には、ヤコブの息子ユダに対して、あなたの血筋からやがて王が出るということが語られています。このヤコブの言葉の通り、ユダの血筋から、やがて、ダビデが生まれることになります。そして、ダビデはイスラエルの王となりました。その後も、ダビデの息子たちは代々、イスラエルの王となっていったのです。本日の御言葉を読みながら、「父の子たちはあなたを伏し拝む」(49:8)という言葉が心に留まりました。そして、思い出したのは、かつてヨセフが兄たちに自分が見た夢について語った記述です(創世記37:6-8)。ヨセフは夢の中で、自分の束の周りに兄たちの束が集まってひれ伏したという夢を見ました。ヨセフがそのことを語ったところ、兄たちはヨセフに激怒し、「お前が我々の王になるというのか」と語ったことが記されています。本日の箇所と、この創世記37章を重ね合わせて読んでいく時に思います。この言葉をユダ以外の兄弟たちはどんなふうに聞いたのだろう…。内心穏やかではなかったかも知れません。しかし、彼らがどう思おうととも、この言葉は真実でした。その通りになったのです。彼らはそのことを受け止め、砕かれた思いで聞かなければならなかったのでした。そして、そのことは私たちにも問われていることなのだと思います。「ユダの血筋から出る者が王となる」ということは、私たちにも呼びかけられていることです。この王は、ヤコブの息子たちの王となるだけではなく、私たちの王でもあるのです。ユダから、ダビデが生まれ、そのダビデはイスラエルの王となっていきました。しかし、あの後、さらに「ダビデの子」としてお生まれになった方がいました。イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの主、私たちの王となられました。そんな中、私たちもこのイエス・キリストを王として心に迎え、ひれ伏していかなければならないのです。
49:9には、王としてのユダの子の姿を「ライオン」に例えて語られています。「彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか」という言葉が印象的です。この御言葉を読みながら、私は動物園で見たライオンのことを思い浮かべます。檻の向こうにいるのに関わらず、私たちを圧倒する存在感でもって、身を伏せている…。それがライオンです。ほとんどの人が、ライオンを目の前にすれば、この圧倒的存在が自分の思い通りになってくれるなんて、とても無理と思うのではないでしょうか。本日の箇所でも、そんなメッセージが語られているのだと思います。そして、それが「王」としての姿です。私たちが上の側に立って、思い通りにすることなどできない…。そんなこと畏れ多くてできない…。それが王としての姿なのです。
そんなことを思いながら、私たちはイエス様をそんなふうに見上げているだろうかと思いました。私たちはイエス様を王として迎えているでしょうか。畏れの思いをもって、ひれ伏しているでしょうか。私たちは時に、イエス様を主としながら、やっぱり自分があるじであり続けているということはないだろうかと思います。自分がイエス様の上に立って、イエス様に自分の思い通りになってもらおうとしていないだろうかと思うのです。