「その枝は石垣を越えて」

創世記49章13-28節 

私たちは数週間にわたり、ヤコブが息子たちに分け与えた祝福について読み進めてきましたが、本日考えたいことは、祝福には「もったいない」ということがあるということです。せっかく祝福を与えられているのに「もったいない」…。結果、せっかくの祝福を取りこぼしてしまうということがあるのです。私はヨセフという人を思う時、ヨセフは、そのような神様の祝福を取りこぼさないよう、祝福を見つめ続けた人の一人だったのではないかと思います。私たちは、これまでヨセフの歩みを読み進めてきました。ヨセフの人生というのは、波乱万丈でした。私たちには想像もつかないような辛い経験をたくさんしてきました。若い頃、父さんのもとで本当に喜びに溢れた日々を送っていたのに、ヨセフだけずるいと兄弟たちから妬まれ、ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまいます。その後、ヨセフはポティファルの家で健気に仕えていくのですが、そこでもひどい目に遭います。ポティファルの妻が、ヨセフを誘惑し、ヨセフがそのことを拒むと、ヨセフを訴え、牢獄に捕らえてしまうのです。そんなふうに、ヨセフはこれまでことごとく大変な思いを通らされてきました。しかし、それでも聖書に記されているヨセフの生涯を読んでいく時、ヨセフの生涯には明るさがあるのです。ポティファルの家で奴隷として仕えている時も、牢獄の中にいる時も、不思議な明るさがあるのです。それは神様がヨセフと共にいてくださったからでした。本当に大変な状況に置かれていましたが、そんなヨセフと神様は共にいて、ヨセフを守り、支え続けてくださっていたのです。ヨセフもそのことを感じていました。ですから、ヨセフの歩みには、色々と大変な時にも不思議な明るさがあるのです。そして、そんなヨセフのことを思います時に、ヨセフはどのような時でも、神様を見つめ、神様からの祝福を取りこぼさない人だったのだと思います。目の前の現実には、祝福よりも困難が多かったかも知れません。しかし、それでも今、この場所にある祝福を見失うことがありませんでした。大変だけど、神様は共にいてくださって、守り、支えてくださっているということを見失うことがありませんでした。それゆえに、ヨセフは大切なものを取りこぼすことなく、歩むことができたのだと思います。
本日の御言葉を読みながら、「泉のほとりの実を結ぶ若木」(49:22)という言葉が心に留まります。「泉のほとり」というのは、神様の祝福に満ちた場所です。ヨセフという人は、まさに、その「泉のほとり」から離れることがなかった人でした。ヨセフは神様の祝福の場所にしっかりと根を降ろし、どんな時にも、その根っこの部分を見失わずに歩んでいきました。実際の歩みには様々な紆余曲折がありました。思わぬ方向に枝が伸びていくこともありました。しかし、その根っこの部分では、常に、神様の養いと支えがあり、神様に根を降ろし、神様から絶えず栄養を受けながら伸びていったのです。そんな中、自分たちの思い、自分たちの考えの領域、そういうものをはるかに超えて神様に導かれていった様子が、「石垣を超えて」という言葉に表れているのだと思います。

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