「愛に訴えて」

フィレモンへの手紙1:8-18

本日の箇所のフィレモンの手紙は、パウロがフィレモンという人に宛てて書いた手紙です。とても短い手紙で、個人的な内容ですので、新約聖書の中でも読まれることの少ない箇所なんじゃないかと思います。ただ、この箇所は私の中で大切な聖書の箇所です。現在、礼拝堂の入り口に一枚の絵を飾っていますが、その絵が、このフィレモン書をモチーフに描かせていただいた絵です。本日、皆さんの週報の中にもその絵葉書を入れさせていただきました。この絵がどういう場面かと申しますと、使徒パウロがオネシモという人を抱きしめながら、迎え入れている様子を描いた絵です。オネシモは、フィレモンという人のところに仕えていた奴隷でした。フィレモンはおそらく、コロサイ教会の教会員で、パウロがエフェソの地に三年間滞在していた時、パウロから福音を聞かされ、救われたのではないかと考えられます。フィレモン書1:1で、パウロはフィレモンについて、「愛する協力者」(1:1)と呼びかけていますが、そのように呼びかけるようなコロサイ教会の中心的人物だったのだろうと思います。このフィレモンの仕えていた奴隷がオネシモでした。しかし、オネシモは、こともあろうに、フィレモンのところから逃げ出してしまいます。しかも、オネシモはフィレモンのところを逃げ出す時に、フィレモンの持ち物を持ち出し、盗みまで働いてしました。何でそんなことをしでかしたのか、オネシモとフィレモンとの間に何があったのか、分かりません。ですが、どういう理由があるのせよ、そんなこと許されませんでした。奴隷の身分の人が、主人のもとから脱走することだけでもとんでもない罪ですが、それに加えて、物まで盗んだのです。捕まったらとんでもない罰を受けることは目に見えていました。そういう状況の中、オネシモは逃亡をしていったのですが、その後、どんな思いだったのでしょうか。おそらく、逃げ出したのはいいのですが、どこに行く宛てもなかったのだと思います。そんな中、逃げ出した後で、自分がとんでもないことをしてしまったと後悔したりしたのではないでしょうか。いずれにしても、そのように逃げ出したオネシモは、結局、パウロのところにやって来るのでした。普通考えたら、そんな人を受け入れることなんてできないのではないでしょうか。しかし、パウロはオネシモを受け入れるのです。
私は学生の頃、そのパウロとオネシモの話を聞いたのですが、本当に感動したことを覚えています。私たちが一緒に建てあげていく教会がそのような場所であったら素晴らしいなと思いました。私たちの周りの世界は、どんどんと赦すということが難しくなっている状況があります。お互いを信じるということ、愛によって変えられていくということもそうなのではないでしょうか。しかしだからこそ、このパウロとオネシモ、そして、フィレモンの物語を心に刻んでいきたいと思うのです。私たち人間的な思いでは中々できることではないかも知れませんが、私たちがイエス・キリストに出会い、その愛に捕らえられ、変えられていく時、こういうことが起こるんだ…。フィレモンの手紙は、私たちにそのような励ましと希望のメッセージを語りかけてくれているのだと思うのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »