本日のローズンゲンの御言葉です。

「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。」詩編102:18

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」フィリピ4:6

昨日、久しぶりにS先生とお電話でお話をしました。S先生は私がかつて「障害」者と教会委員会というところに関わらせていただいていた時、お世話になった先生です。「障害」者と教会員会は、「障害」者の方が、教会で活き活きと歩むことができるように取り込んでいる委員会です。そんな中、私はこれまでたくさんのことを委員会の中で教えていただきました。中でも忘れられないのは「わたしたちのことをわたしたちのことを抜きに決めないでほしい」との「障害」当事者の方々の言葉です。「障害」者の問題は、しばしば当事者不在の形であれこれ話し合われ、決められてしまうことがあります。そんな中、「当事者である自分たちのことを抜きにして決めないでほしい」という言葉を度々聞いてきました。わたしの中で忘れられない言葉の一つです。そして、それは「障害」のことだけに関わらないのではないかと思っています。たとえば、私たちの教会には、礼拝堂の真ん中にソファーが置かれています。このソファーは、当時のご高齢だったSさんとNさんの意見からそうしたものです。姪浜教会の椅子は木のベンチなので、ずっとご高齢の方には座っていてキツいという声が挙がっていました。そんな中、どのソファーにしようか、色々考えていた時にSさん、Nさんに手伝っていただきました。教会の中にある色々なソファーに座っていただいたのですが、柔らかすぎるもの、座りづらいものなど様々でした。結果、今のソファーが一番よいということになりました。また、ソファーを置く位置でも、後ろ過ぎると話が聞こえづらいし、前過ぎると落ち着かないということを話し合いながら、今の場所になったのです。そのように一つ一つ、その人自身の声を聞くことが大事だということを教えていただきました。本日の箇所には、次のように記されています。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

本日の箇所には、思っていることを全部、神様に打ち明けなさいということが呼びかけられています。この箇所を読みながら、ふと思うのは、本来、神様、私たちがあれこれ言う前に、最初から私たちの思いを全てご存じなんじゃないだろうかということです。にもかかわらず、「私たちの思いを打ち明けなさい」と呼びかけられているのです。本日の御言葉を読みながら、改めて、「神様は私たち自身の声を聞こうとされているんだな」ということを思います。神様は、私たちのこともよくよくご存じで、私たちの思いもすでに十分に受け止めてくださっています。しかし、それでも、私たち自身の声を聞こうとされているのです。そのことを抜きにして、私たちのことをされようとはされないのです。実際、イエス様の福音宣教の業は徹底してそのようになされていきました。目が見えない人に出会った時にも、その人にまず「何をしてほしいのか」(マルコ10:51)と尋ねられました。その姿にも「当事者である、あなたの声を抜きにして何も決めない」という姿が表れているのだと思います。その姿にイエス様の愛の眼差しを思います。今の時代、大切な視点なのではないでしょうか。

鈴木牧人

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