「キリストの十字架がむなしいものにならないように」

Ⅰコリント1:10-17

本日の箇所でパウロは、コリント教会で起こった分裂騒動について言及しています。この分裂騒動について、注解書にはそれぞれのグループについて、このような説明がなされていました。たとえば、「わたしはアポロにつく」と言っていたグループについては、「アポロは、パウロがコリントを去った後、入れかわりに来たコリント教会の教師である。彼は当時の学問・文化の中心地、アレキサンドリア生まれの学識のあるユダヤ人指導者で、哲学と聖書に精通していた雄弁家と知られていた。パウロのぼくとつとした説教より、アレクサンドリア・スタイルの華やかな説教にコリント教会は見せられた。『自分たちはアポロにつく』と言っていた人々はそんなアポロに心惹かれていた人々だった」という説明がありました。また、「わたしはケファに」と言っていたグループについては「エルサレム教会のリーダーであるケファ(ペトロ)を信奉していた人々で、そんなペトロを模範として自分たちの正当性を語り、パウロを批判したのではないか」ということでした。これに対して、「わたしはパウロにつく」と言っていたグループについては、「コリント教会にあった『アポロ』のグループ、『ペトロ』のグループに対抗する形で、生まれたグループではないだろうか。自分たちはコリント教会を作り上げたパウロ先生に従っていくんだということを表明しながら、他のグループと対立した。彼らは確かにパウロの主張に立って、意見を語ったかも知れないが、その熱心さのあまり、悪しき特権意識が露呈していった」という説明がされていました。

私は本日の箇所を読みながら、以前「わたしはパウロにつく」とか、「わたしはアポロに」「わたしはケファに」と分かれてしまっていること自体が問題だと思っていました。しかし、よくよく考えてみます時に、そういうことはどうしても起こりうると言いますか、致しかたないことかも知れないと思いました。イエス様を見上げていく中で、互いに段々と色々な主張が出てきて、色々な立場が表面化してきて、違いが浮き彫りになっていくことは起こり得るのだと思います。それは、その人、その人なりに信仰のことを真剣に考えて、御言葉にしっかり向き合い、地に足をつけた信仰を生きようとしていく時に、どうしても生じてくることなのではないでしょうか。そんな中、本日の箇所で問われているのは、1:12の御言葉にある「言い合っている」という言葉です。彼らは自分たちのスタンスばかりを言い合っていました。おそらく彼らは互いに言い合って終わりだったのではないでしょうか。「言い合う」だけでなく、「聞き合う」こと…。そのことが必要だったのではないかと思うのです。

本日のメッセージというのは、そのまま、私たちに問われていることなのではないかと思います。私たちも信仰の事柄に真剣に向き合おうとすれば、おのずと私たちが大切にしたい信仰のスタンスというものが出てくることがあるのだと思います。それ自体が問題ではなく、それしか見えなくなってしまうことが問題なのです。自分しか見えなくなってしまって、自分を絶対化してしまっている…。そのことが問われているのです。そんな中、私たちに問われているのは、「言い合う」だけでなく、きちんと「聞き合う」こと…。そのことが問われているのではないでしょうか。

 

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