「しかし、義とされている」

Ⅰコリント6:11

「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(6:11)
ギリシア語の原文を読みますと、6:11の御言葉は「アッラ」という言葉が繰り返し使われています。「アッラ」は逆接の接続語で、「けれども」「しかし」「むしろ」という意味です。この言葉が「洗われ」、「聖なる者とされ」、「義とされている」というギリシア語の前で三回繰り返されているのです。ですから、ギリシア語の原文をそのまま訳しますと、「しかし、それでもあなたたちは洗われているんだ。しかし、それでもあなたたちは聖なる者とされているんだ。しかし、それでもあなたたちは義とされているんだ。」ということになります。これは、明らかにパウロの意図的な言い回しなのだと思います。コリントという町は大変風紀の乱れた場所で、何でもありでした。そんな中、コリント教会の人たちもいつも色々なジレンマや誘惑にさらされていたのだと思います。周りの人たちの風潮や生き方、価値観に惑わされてしまったり、流されてしまいそうになることもあったのではないでしょうか。そんな中、自分たちも周りの人たちと変わらないんじゃないかと落ち込んだりすることもあったのではないかと思います。そんな中にあって、パウロは繰り返し、「アッラ」と語るのです。「しかし、それでも」と繰り返して語るのです。パウロは、コリント教会の人たちにこのことを知ってもらいたかったのだと思うのです。
本日の箇所を読みながら、改めて、私たちにとって、バプテスマを受けるということは、この「しかし」ということを信じて歩み出していくということではないかと思いました。私たちはそれぞれ世の現実の中に立たされています。そんな中、私たちの毎日の歩みだったり、私たちの周りには色々なことがあります。心痛めることもありますし、正直、がっかりさせられるようなこともあります。そして、そのようながっかりさせられることが、自分と全くもって無関係かと言えば、そうとも言えない…。目の前の人の言動や振る舞いに傷ついたり、がっかりさせられながら、よくよく考えてみる時に、自分もその人と同じようなことをしていることに気づかされ、自分で自分にがっかりさせられる…。そんなこともあったりします。そんな自分のことなど考える時に、本日の「あなたがたの中にはそのような者もいました」という言葉がつくづく自分とは無関係ではない…。場合によっては、自分自身のことだと思ってしまうのです。しかし、そんなことを思いつつ、だからこそ、本日の御言葉が心に迫ってくるように思うのです。「しかし、それでもあなたたちは洗われているんだ。しかし、それでもあなたたちは聖なる者とされているんだ。しかし、それでもあなたたちは義とされているんだ。」この「しかし」の信仰に生きることが私たちの信仰の歩みなのだと思いますし、バプテスマを受けるということは、この「しかし」ということを信じて歩み出していくということだと思うのです。

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