「新しい一致へ」

創世記11:1-9

バベルの塔を建設していた人々は、言葉を乱され、その後全地に散らされて行きます。ここで、彼らがこの「バベルの塔」を建設しようと考えた理由を振り返りたいと思うのです。彼らが「バベルの塔」を建設した理由は、「有名になる」こと。そして、「全地に散らされないようにする」ことでした。それは、自らの考え方を絶対化し、他者との対話を拒絶していくことでした。しかし、その彼らの企ては、神による強烈な「否」を持って砕かれて行きました。一見するとこの「バベルの塔」の物語は、神の「否」によって終わり、人々は混乱させられ、全地に放り出されるという、神が人を突き放すかのような形で終わっているかのように思えます。しかし、果たしてそうなのでしょうか?神が「否」とされたのはなんだったのでしょうか?
神は直接、彼らが建てた塔を崩してはいません。それは、人々が自分たちだけの殻に閉じこもり、神と、そして他者との対話を拒絶して行くことを深く悲しまれた神が、他者の声に耳を傾けることの大切さを人々に示すためだったのではないでしょうか。そして、人々が自ら他者との対話に開かれて行くものとされて行くために、まだ見ぬ全地へと押し出されたのではないでしょうか。それは、神が私たち人間を心から愛しているがゆえに、神と、そして人間同士の交わりを何より喜ばれるという神様のメッセージだったのではないでしょうか。
今日の聖書箇所を読んでいて、みなさんどこか他の聖書箇所を思い出したりはしないでしょうか?人々が様々な言語を語り出す…そう、新約聖書、使徒言行録のペンテコステの記事によく似ているのです。イエス様の弟子たちもイエス様の昇天後、一つになって集まっていました。「外のことは自分たちには関係ない。イエス様のことは、自分たちだけの「理解」でいい」と、そんな風に思っていたのかもしれません。しかし、そんな風に内向きになって一つに集まっていた弟子たちのもとにイエス様が弟子たちに約束された聖霊が降っていきます。それはまさに、人々が自分たちだけの殻に閉じこもり、神と、そして他者との対話を拒絶して行くことを深く悲しまれた神が、他者の声に耳を傾けることの大切さを人々に示すのと同じように、内向きに一つに固まっている弟子たちを叱咤激励し、外に向かって押し出していく、そのような出来事だったのではないかなと思うのです。弟子たちは、この時「きっと誰からも理解されないだろう。理解してもらえないだろう。自分たちのことを理解してくれる人なんて誰もいない」と思っていたのではないでしょうか。しかし彼らは、その時本当に大事にしなきゃいけないことを忘れていたのではないかなと思うのです。それは、弟子たち一人一人のことを、誰よりも、弟子たち自身よりも理解してくださっているイエス様が、神様がいるということです。ペンテコステの聖霊降臨の出来事は、神様が一人一人に理解できる形で、「あなたは理解されているんだ」ということを伝えていくような、そのような出来事だったのではないかなと思うのです。そして、自分たちが理解されていることを示された弟子たちは、神によって「理解へ向かっていくための対話」へと押し出されて行きます。
「バベルの塔」を建てあげていった人々の下に降っていった神は、異なる他者の言葉に耳を傾け対話することの大切さを示されました。そしてペンテコステの日、弟子たちに降った「聖霊」は、「神の私たちに対する理解」を思い起こさせました。それらは、私たちの持つ「誤解」や「不理解」という限界を超えて、私たち人間がお互いに「理解」し続けていく、そのような対話へと押し出されていく出来事だったのではないでしょうか。そしてそのような、私たち人間がお互いに「理解し続けていく対話」を続けていくとき、他者を閉ざした自分だけの一致ではなく、他者との対話の中から生まれてくる「新しい一致」が見えてくるのではないでしょうか。                         川久保拓也神学生

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