「一人で立っているわけではない」
Ⅰコリント9:1-18
私が神学部に入学して間もない頃のことです。研修教会から神学生への献金をいただきました。私は最初、そんなものいただけるなんて思っていなかったので、ビックリし、申し訳ない思いで一杯になってしまいました。色々考えて、「献金をそのまま教会に返そう」と考えたりしました。そのことを知り合いの牧師に相談をしてみたところ、その牧師から強い口調で「そんなことするもんじゃない」と言われました。
「せっかく教会の人たちが祈って、献げてくださったものを返すなんて、そんなことするもんじゃない。それは失礼にあたる。余計なことは考えないで、ありがたく受け取りなさい。神学生時代はむしろ、たくさんの人たちに祈ってもらい、支えてもらいなさい。それも大切な経験だよ。これから神学校を卒業して、現場に出て行った時に、これまで自分はこんな支えてもらってきた…。祈ってもらってきた…。そういうことが現場に出て行った時の励ましになり、支えになっていくんだ。そして、鈴木くん自身が、誰かのために祈ったり、支えたりするための原動力になっていくんだ。だから、そんなふうに祈ってもらったり、支えてもらっていることを申し訳ないと思うんじゃなくて、素直に受け止めながら、そのことの感謝を忘れないことが大事なんだ。」
本日の箇所を読みながら、その時のことを思い出しました。本日の箇所で、パウロは「いったいだれが自費で戦争に行きますか」と語りました。ここでパウロは戦争の話をしているわけではありません。自費で戦争に行く人などいないように、福音宣教する者も自費で行なうものではないんだということを語っているのです。福音宣教する者がいるなら、その人を周りの者たちが支えるべきだし、その人はそれを受ける権利があるんだということを語っているのです。本日の箇所でパウロは「権利の話」だけを語っているのではないと思います。もちろん、使徒の権利についてのテーマも大事なメッセージです。しかし、それ以上にパウロが伝えたかったことは、福音宣教というものは、一人でなされていくものではない…。互いに祈りあい、支えあって、なされていくものなんだということなのではないかと思うのです。先ほどの牧師が語ったように、一人の働き手がいるとするなら、その働き手のために周りの人たちが祈り、支えていくべきなんだ…。その協力関係、祈りあう関係が福音宣教をする時には、大事だし、その関係が本来あるべき祝福された教会としての形、福音宣教としての形なんだということを、パウロはコリント教会の人たちと共有したかったのではないかと思うのです。このことは本当に大切なことなのではないでしょうか。
福音宣教は誰か一人の働きによってなされていくものではありません。共になされていく働きです。それは、みんながみんな、一緒のことをするということではありません。将来の福音宣教の働きのために学んでいる神学生、それを物心両面で支え、祈る教会…。その姿に表されるように、互いにすべきこと、できることで支えあい、一人ではできないことを共に連帯協力の中で行なっていくものなのです。