日々の御言葉メールより(9月16日分)
本日のローズンゲンの御言葉です。
主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。詩篇90:13
今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。ヨハネ16:22
昨日、Yさんのお家で家庭集会が行なわれました。現在、家庭集会では、創世記に記されているヨセフの記述を読み進めています。そんな中、昨日は創世記46:28-34を読みました。ここは死んだと聞かされていたヨセフとヤコブが再開する場面です。
息子たちから死んだとばかり聞かされていたヤコブは、ヨセフが生きていて、エジプトの宰相になっているとの話を聞き、気が遠くなるほど驚きました。そして、再び、再開したのが、創世記46:28-34です。この箇所について、『ヨセフの見た夢 神の摂理に生きるとは』(遠藤嘉信著、いのちのことば社)には、こんなことが書かれていました。
「『わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから』(創世記46:30)。
それは、単にヨセフに会えてよかった、ずっと自分のこれまでの生涯がヨセフにこだわってきた生涯であって、それだけが望みで生きてきたが、今それがかなったのでもう思い残すことはないという単純な喜びの表現ではありません。ヨセフは死んだと思っていました。こだわるにしても、それはどうにもならないことなのです。だから、もっと深い意味において、彼の信仰者としての葛藤がここで終わりを告げたことを意味しているのだと思います。
ついに神のやさしい配慮を覚えました。神の真実と約束を確認しました。神がどこまでも、ヤコブの味方であることを知りました。イスラエルの民を愛し、ヤコブを愛して、この民の大いなる民とするという特別なお約束に、神が誠実であることを彼は確認したのです。そのことがわかるまで、心は穏やかではありませんでした。
この地上において、その神の愛と約束を確認するまで、そういう意味での彼のこだわりがあったということです。」(『ヨセフの見た夢 神の摂理に生きるとは』遠藤嘉信著、いのちのことば社、P.184)
この本に書かれているように、私たちもそれぞれの信仰の歩みの中で、「信仰者としての葛藤」を通らされることがあるかも知れません。現実の歩みの中で、自分の願いや思いとは異なることが起こったり、悲しい経験をしたりすると、心揺さぶられてしまうことがあるかも知れません。そんな中、神様のやさしさが分からなくなったり…。
神様が自分の味方であることが分からなくなったり…。神様が私たちを愛しておられるということが分からなくなったり…。神様の御言葉は真実であるということ、約束は必ずそうなるということが分からなくなったり…。
そんなことがあるのではないでしょうか。ヤコブはまさにそのような経験をさせられたのだと思います。
しかし、そんなヤコブがヨセフとの再会を通して、ああやっぱり、神様は愛のお方だ…。自分には神様の計画は分からないことだらけだけど、神様は真実の方で、神様のなされることは最善なんだ…。神様の言われる約束はその通りになっていくんだ…。神様はこの私にきちんと目を注いでくださっているんだ…。そのようなことを身をもって知らされていったのです。
本日の箇所には、次のように記されています。
「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」
本日の御言葉の詩人も、まさに「信仰者としての葛藤」を通らされているのではないでしょうか。
そんな中、本日の箇所から思うのは、私たちはそのような葛藤を通らされる時、神様にその思いをそのまま打ち明け、「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか」と祈って構わないんだなということです。
同時に、そんな私たちを顧みてくださり、私たちの思いを超えて最善の業をなし続けてくださる主がおられるんだということを覚えていたいと思います。そして、私たちが色々な経験をさせられながら、「ああやっぱり、神様は愛のお方だ」ということを知らされていくなら、それは本当に私たちにとってかけがえのない神様との出会いの経験となっていくのだと思います。(鈴木牧人)