「忘れてはいけないこと」

Ⅰコリント11:23-26

本日の箇所は、先週に引き続き、「主の晩餐」についてです。私たちの教会では、「主の晩餐」と「バプテスマ」とを二つの礼典として大切に守っています。というのは、この二つのものとも、イエス様御自身が直接「これを行なうように」と言われたからです。イエス様は、十字架につけられる前、弟子たちと最後の食事を取られる際に、パンと杯を分けられ、パンについて、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(11:24)と言われました。そして、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」(11:25)と宣言されました。そして、このことを記念し続けるようにと言われたのです。また、イエス様は十字架にかかられ、復活された後、弟子たちに対して、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19-20)とも言われました。このことを受けて、私たちはこの「主の晩餐」と「バプテスマ」の二つの礼典を大切に守っているのです。

まず、このことについて考えていきたいと思います。イエス様がこれらのことを行ないなさいと言われてから、2000年にわたり、世界中の教会でこの「主の晩餐」で守り続けているのです。私の中でこのことを実感したことがあります。私は以前、エルサレム内城のすぐ北にある「園の墓」と呼ばれる場所に行ったことがあります。そこはイエス・キリストがゴルゴタの丘で十字架刑にあった後に葬られた墓と比定される聖所のうちの一つです。園内にはいくつもの野外の礼拝所がありました。そのいたるところで礼拝が献げられていたのですが、そこから聞こえてくる讃美は皆、違う言語でした。世界中から集まった人々がそこで礼拝していたのです。私たちもその一か所で礼拝を献げることになったのですが、その中で主の晩餐を行なうことになりました。パンを受け、杯に与ったのですが、私はパンと杯に与りながら、2000年の長きにわたって、世界中の人々がこうして、主の晩餐を守り続けているんだなということを実感しました。そのことに凄いなと思ったのです。

本日の箇所を読みながら、何より思わされるのは、そのことです。私たちがこの「バプテスマ」と「主の晩餐」を守り続けていること…。そのことの大切さや凄さを痛感するのです。しかし、それだけではありません。私たちは「バプテスマ」や「主の晩餐」をくり返し、くり返し、行なっていますが、ただ、くり返しているだけではありません。その度ごとに新たな思いに与ることができる…。新たな感動が与えられる…。そこから新たな歩みが始まる…。そのような経験をさせられていくのではないでしょうか。たとえば、先週、行なわれたHさんのバプテスマを献げながらもそう思います。Hさんのバプテスマを通して、私たちは新たな思いが与えられ、ここから新しく出発しようという思いが与えられたのではないかと思うのです。「バプテスマ」と「主の晩餐」はそのようなものです。私たちはこれらの二つの礼典を通して、その度毎に新たな思いで歩み始めるのです。

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