本日のローズンゲンの御言葉です。

「御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。」詩篇118:15,16

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」フィリピ4:4

昨日は、松見享子先生をお迎えしてのオープンチャーチを行ないました。松見先生は以前、私たちの教会の研修神学生としても学びをされていて、それ以来の礼拝出席でした。「久しぶりに姪浜に来ることができ、本当に嬉しいです」とおっしゃっていました。先生はメッセージの中で「光の子として生きる」ということについて話をされました。

「光の子として生きるということは、一点の曇りもなく、ピカピカというイメージだったり、闇がない完ぺきな存在であるというイメージを持つでしょうか。そうであるとするなら、私たちは『とてもそんなふうになれない』と思うんじゃないかと思います。ここで言われている光とは、神の光であり、御子イエスこそ、神の光そのものです。御子イエスは、私たちを光で照らします。しかし、単に、私たちを明るく照らし出すだけでなく、時に私たちにとって蓋をして隠しておきたい、そういうものをも明らかにします。私たちは時に闇に隠して光を避けようとし、暗闇にうずくまっている方が楽だと考えることもあります。しかし、『明らかにされるものはみな、光となるのです』(エフェ 5:14)。」

このようなお話をされた後、さらに次のようにおっしゃっていました。

「聖書が全体を通じて語っていることは、私たちがどんな闇を抱えていても、『あなたは光の子だ』と言われ、『あなたは高価で尊い存在だ』と言われていることです。私たちはこのことをどう思うでしょうか。」

松見先生はそう問いかけた後、ご自身の歩みを振り返り、長いこと、自分で自分が好きではなかったということや、劣等感に苦しんでいたこと、そんな自分をだれかが本気で大切にしてくれるはずがないと思っていたことなどを話しておられました。やがて教会に集うようになったのですが、教会に集い始めた頃、

聖書のメッセージを聞いても、最初は信じられず、教会で色々な人にくってかかっていたそうです。

しかし、ある時、そのような自分さえもまるごとイエス様に愛されているんだという思いが自分の中に飛び込んで来て、その時、本当に嬉しかった…。その時に、イエス・キリストの十字架と復活の意味が初めて理解できたとおっしゃっていました。お話を聞きながら、私たちの信仰の一番大切な部分を改めて教えられた思いでした。

本日の箇所には、次のように記されています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

この御言葉を読みながら、昨日の松見先生のメッセージを思い出しました。私たちがこの御言葉を受けて、「クリスチャンはいつも笑っていなきゃいけないんだ。喜んでいなきゃいけないんだ」と思うなら、私たちは「とてもそんなふうになれない」と思うんじゃないかと思います。しかし、そうではないのだと思います。私たちは落ち込んだり、うなだれたり、喜べないと思うような時もあるかも知れません。しかし、それでも変わらずに私たちを見つめていてくださるイエス様に出会い、そのイエス様に心を向けていく時、喜べないはずの私たちが喜びを見出せるということがあるのだと思います。ちょうどイエス様の光に照らされるように、私たちの心に喜びの光が灯るということがあるのです。そんなふうに本日の御言葉を読みながら、改めて、昨日の松見先生のメッセージを噛み締める思いでした。本当に感謝な時が与えられました。  (鈴木牧人)

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