「『教会性』ということ」

Ⅰコリント12:27-31

 コリント教会には、当時、色々な問題がありました。教会の中には、いくつもの分派ができてしまっていました。中には「自分たちはすでにゆるされているんだから何したっていいんだ」と主張しながら、自分たちのことしか考えず好き勝手している人たちがいたり、「教会の中でこんなことが起こるの?」と思うような問題が起こったりしていました。そのようなコリント教会の様子を想像してみながら、思うのは、そんな状況に置かれて、教会の人たちはどんな思いだったんだろうかということです。色々なことに傷ついたり、疲れていたりして、喜ぶべきものを素直に喜べない…。そういう人もいたんじゃないだろうかと思います。そういう状況の中で、「キリストの教会になりなさい」と呼びかけているのが、この手紙なのだと思うのです。ですが、それは簡単な話ではなかったんじゃないでしょうか。そのようなことを考えれば考えるほど、本日の箇所の御言葉が心に迫ってきます。本日の箇所で、パウロは「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」(12:28)と語っています。コリント教会には、様々な問題があったかも知れません。しかし、それでも、その一人一人を神様がお立てになったのだとパウロは語っているのです。この御言葉を読みながら、改めて思うことがあります。それは何というのでしょうか。これほど色々な問題があって、みんなの心の中に色々な思いが混在している…。そういうコリント教会の状況の中で、もしも、彼らに「教会になる」ということを語ることができるとするなら、それは、コリント教会の一人一人が、神様と自分との関係を見つめ直すことなのではないかということです。何よりも、コリント教会の一人一人が、「神様と自分」との関係を見つめ直し、もう一度、神様に出会い、救われた喜びを思い返し、自分はその神様によって、ここに今、立たされているんだということを心に刻むことが大事だったのではないかと思うのです。共に教会について語ることができるとすれば、そういうところから始まるのではないかと思うのです。パウロは本日の箇所でそのことを促しているのではないでしょうか。

私たちは、この「神様と私との関係」がぼやけてしまっていることはないでしょうか。あるいは、神様と私との関係を飛び越えて、教会ということを語り出すようなことはないでしょうか。私自身、身をもって学んできたことは、「教会とは何か」ということを考える時、何よりもまず、私たち一人一人と神様との関係が問われているということです。私たち一人一人が神様に出会い、その神様との応答の中で立たされていくことが重要なのです。

そして、さらに思うことがあります。それは、私たちの信仰は、神様と私だけの関係で終わるのではないということです。常に、教会の繋がりの中で、神様と私の関係を捉えていく必要があるのだと思うのです。私たちは、神様と私との関係を飛び越えて、教会ということを語ることができませんが、教会ということを抜きにして、神様と私との関係は成り立たないのです。本日の箇所でパウロが語っているように、私たちは「キリストの体であり、また、一人一人はその部分」(12:27)なのです。

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