「最も大事なこと」
コリントの信徒への手紙一15章1~6節
神学校に行き「教会に仕える者」にされました。1コリント15:3~5のみ言葉は、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」は受け継がなければならないみ言葉です。
15:2には、「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」あります。世界の歴史でただ一度起こされた「救いの出来事」を、一言で言い表しているからです。
「キリスト」は十字架においてその信実を顕されています。「キリストは、家畜小屋に生を受けられ、苦しむ者、罪ある者とされた人々のただ中に、地上生きられました。人の弱さを知る者として、その生涯の言葉と行いを通して、神の愛と義を示されました。イエス様は人であり神でありました。それ故、罪無き方が、罪の贖いのため十字架に上がるという出来事が行われたのです。
「「聖書に書いてあるとおり」と繰り返されています。キリストの出来事は、ユダヤの主なる神が旧約聖書に置かれた言葉が実現された事なのだと言い、そこに私たちの信仰が立っていると教えています。み言葉は「私たちの罪のために死んだこと」と続きます。神様は私たちを、尊厳ある者・意思ある者として創造されましたが人間はその意思を以て神に背きました。この背きが罪であり、人間は自ら死に定められた者へと、その生の向きを変えました。その罪が人間を、隣人や被造物、自分自身との関係まで壊してしまう者、偽る者、殺人や戦争を繰り返す者にしています。
それにもかかわらず、愛によって人間を創造された神は、人間を見捨てられず、「十字架」において、私たちの罪を神(イエス・キリスト)ご自身のものとされ、神(イエス・キリスト)ご自身の命を私たちに与え、私たち罪人を神ご自身と和解させてくだささいました。
私たちの死の定めが取り払われたこと、私たちはキリストの復活によって、終わることのない命に与ることを、啓示されます。キリスト者はその福音を世に伝えるために教会へ集められています。
全てのことはイエス様の再臨の時に完成されます。それまで、人間は自分の罪によって引き起こしたことを、自分の手ですこしでも正すべく求められています。そういう者としてキリスト者はイエス様の足跡を慕います。
父なる神様は十字架に死なれたイエス様を「よし」とされ「復活」させられました。2000年前、弟子達は、復活したイエスに出会って、はじめて十字架の真実を教えられ、知り、文字通り命をかけてその真実を宣べ伝えました。それがキリスト教です。
主イエスの復活を知った者は弟子達と同じように、自分自身の生き方が根本的に変わるという事を伴います。それはあなたを絶望・孤独から救い出し、自由な者・人を赦すことの出来る者に変え、苦悩を深い喜びに変えます。
「再臨」の時、イエス様は「貧しく苦しむ者のために『一杯の水』を差しだしたことがありますか」と尋ねらるでしょう。
その差し出すべき『一杯の水』について、私は以下のように考えています。今は危機的な時代です。私たちは、この時代にあってこそ、聖書から聴き取るべき人間の命への祝福と愛を、同時代を生きる人々とわかちあっていき、神の正義と慈しみを知るバプテストになっていきたい。生きづらくある人、高齢者、若者に「寄り添い」「わかちあう」こととして福音伝道・主の業に与ろうと思います。世にとっても、教会にとっても今は困難なときにあります。しかし主は世に先だっておられます。「命のみ言葉」に与りながら、主の業に励みたいと願っています。(飛永孝神学生)