本日のローズンゲンの御言葉です。

「背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。」

イザヤ59:12-13

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」1ヨハネ1:9

以前、ある牧師がこんな話をしていました。

「人が罪を犯すとね。その人の心の中をトゲトゲしたものが一度、クルンって回るんだ。トゲトゲしているから、それが回ると、その人は『痛いっ!』て感じる。罪を犯すたびに、その心の中のトゲトゲがクルンっ、クルンって回るんだ。けれども、そのトゲトゲは回っていくごとに段々とトゲトゲが擦り減っていく。だから、クルクル回っていく中で、だんだんとトゲトゲの部分がなくなってしまうんだ。そうすると、心の中でそれが回っても、だんだん痛みを感じなくなっていく。罪にはそういうところがあるんだよね。最初は、そのことに対して、痛みを感じるんだけれど、だんだん慣れてきて、痛みを感じなくなってしまう。そうすると、罪に対して無感覚になっていくんだよ。」

印象的な話でした。本日の箇所には、次のように記されています。

「背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。」

本日の箇所を読みながら「主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく」という言葉が心に迫ってきました。ここには繰り返し、主に対して、背を向け続ける人の姿が記されています。そんな中、ふと思い出したのは、先ほどの心のトゲトゲの話でした。この人は「偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく」ということをくり返す度、心のトゲトゲがなくなって、何も感じなくなってしまっていたんじゃないかなということを思いました。先ほどの牧師は、心のトゲトゲの話をしながら、こんなふうにもおっしゃっていました。

「私たちは罪に対して無感覚になってしまうことがある。けれど、罪がなくなってしまったわけでは決してないんだよ。だから、罪に『痛い』と感じないから、それでいいということではない。

むしろ、それは本当に怖いことなんだ。そんな中、私たちが自分の本来の心の感覚と取り戻し、嬉しいことは嬉しい、痛いことを痛いと思えるような私たちにされることは大事だ。

そのためには何より、イエス・キリストの十字架が必要なんだ。イエス・キリストの十字架によって、罪を赦され、神様と和解をする。その中で、私たちは本当の意味で癒され、私たち自身を取り戻すことができるんだよ。」

本日の御言葉を読みながら、改めて、その話を思い出しました。自分が罪を犯すことだけでなく、私たちの周りの色々なことで心が「痛いっ」と感じることがあります。しかし、そのことが続く中で、だんだんとそういうことに無感覚になってしまうこともあります。でも、問題がなくなったわけでもない…。そんな中、私たちが本当の意味で癒され、私たち自身を回復していくためには、イエス・キリストの十字架の贖いが必要なんだなと思うのです。(鈴木牧人)

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