「あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」エレミヤ15:16

「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」ルカ11:28

昨日、壱岐に出かけてきました。昨年度、私たちの教会の研修神学生だった飛永先生が壱岐教会に赴任され、就任・按手の学びをしたいということで尋ねることになったのです。朝の祈祷会の時間を用いて、就任・按手の学び会をしてきました。壱岐教会は、十数名で礼拝を守っている教会です。昨年の9月から無牧師となり、後任として飛永先生夫妻が遣わされました。教会の皆さんは、飛永先生たちが来られたことを大変喜んでいました。壱岐教会には、今回、6名の方が勉強会に出席してくださいました。最初に壱岐教会を長く支えてこられたTさんという方が来られました。この方は足が不自由で、松葉づえをついて、教会に来られていました。ただ、そのように足が不自由であっても、Tさんは壱岐教会が無牧師の時代も含めて、何十年という間、教会を支えてこられたとのことでした。現在は執事をされているとのことです。またMさんという方も来られました。Mさんは普段、お仕事が大変忙しいため、中々教会に来ることができないとのことでした。そんな中、今回、たまたま時間が取れたので、「祈祷会に出てみよう」と思って来たとのことでした。そのようなタイミングで、思いがけず、大事な学びができて、本当に良かったと話していました。Kさんというご夫婦にも出会いました。Kさん夫婦は、壱岐教会の教会員ではないのですが、現在、積極的に壱岐教会を支えてくださっているとのことでした。毎週土曜日には、教会で椅子をふいたり、掃除をされているとのことでした。飛永先生も、私が今回、壱岐に行くということで日曜日に教会庭全体の草むしりをされたとのことでした。その他に、永子先生には集会後に美味しいお昼をご馳走になり、聞くところによると毎週の日曜日には毎週、永子先生がそのようにお昼を作っているとのことでした。壱岐教会の皆さんの様子を見ながら、私のほうがたくさんのことを教えられる思いでした。教会員の人数も限られていて、厳しい状況なのだと思いますが、教会員の皆さん一人一人が本当に一生懸命に教会を支えておられる様子をひしひしと感じました。

本日の箇所には、次のように記されています。

「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

本日の御言葉を読みながら、昨日の壱岐教会のことを思いました。そんな中、思い出したのは、Kさんがおっしゃっていた、こんな言葉でした。「私の願いは、生涯を全うし、天の御国に入れられた時、イエス様からほめていただくことなんです。」笑顔でそんなふうにおっしゃっているKさんの姿を見ながら、「御言葉に従うことの幸い」ということを教えられる思いでした。信仰の歩みには、色々なことがあります。順風な時もあれば、そうでない時もあります。そんな中、喜んだり、楽しんだり、逆に失望や悲しみに暮れていたり…。色々な思いを通されることがあるのではないかと思います。しかし、順風な時もそうでない時も、「最終的に御言葉を選び取っていくことに幸いの道があるんだ」との思いでもって歩んでいくことができたらと思います。飛永先生ご夫妻を始め、壱岐教会の皆さんの姿を見ながら、改めて、そのように思わされました。(鈴木牧人)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »